かつて “ 蠅 ” という怪奇小説があった。このジョルジ・ランジュラン原作の小説ストーリーの想像力は驚愕に値する。その内容の特異性は大いに魅力的、何度も映画化されていて、近年では20世紀フォックスの “ ザ・フライ ” が有名、観た人も多いのでは?。物質をAからにBに瞬間移動させる実験にのめりこみ、遂にはそのテレポートに成功。世の常として、よせばいいのに自身を実験モルモットとして人間瞬間移動を試みる博士。完全犯罪ないのと同じ、テレポッドなる電送機に1匹のハエが混入したことに気づかず転送開始。結果、人間テレポートは博士の思惑通り成功するが、テレポッドから出てきた博士は化け物。人間とハエとが遺伝子レベルで結合してしまったからだ。
ジキル博士とハイド氏(ロバート・ルイス・スティーブンソン原作)。この怪奇小説もまたリメイク映画繰り返す王道作品。人間に内在する善と悪の部分を完全に分離させたのち、悪の部分だけを取り除き争いなき未来を創世させることを夢見た博士。あるいは、夜な夜な交互に善のジキルと悪のハイドに変身した自身を楽しむだけの異常者だったか真相定かではないものの、案の定その結末もまた悲惨極まりなし。映画ファンならずとも周知の事実。
ハエが混入してしまう。善と悪とを分離させる薬が効かなくなってしまう。いずれの作品も人間のおごりに対する戒め(いましめ)が物語の根底に脈々と息づく。現在という時代を生きているうち、どちらの作品も単なる夢物語で実現不能、などとは胸を張って言い切れなくなってしまう。その方が小説より遥かに恐ろしい。のであるが、実際には誰も深刻には怯えていない。まさか。そこまでは。ねえ。だからだ。
ボクにとって、呪いで蘇るミイラ男はあまり恐ろしくない。何故ならミイラは体重があまりにも軽いからである。体格的に小さいからである。ボクにとって半魚人はあまり恐ろしくない。ライオンやホオジロザメ同様、大変に危険で脅威ではあるが、半魚人という猛獣の1種類だと考えることが出来るからだ。その点ではドラキュラもボクにとってはさほど恐い存在ではない。そういう猛獣の一種であると考えれば簡単に理解できるからだ。(実際に目の前で見たら恐いかも)。
フランケンシュタインはちょっと怖い。博士が死体をつなぎ合わせ、でっち上げた人間という名の肉塊に新たなる命を吹き込む。常軌逸した実験にとりつかれ、世にも醜悪な怪物を作り出してしまう罪。これは自然発生した生命体、すなわち既成猛獣ではなく全くありえない存在なのだから、恐い。こちらもまた、あるまじき神への冒涜、罪深き人間のおごりへの戒めが悲劇のラストで色濃く浮き彫りとなる。
旧約聖書に登場する “ バベルの塔” のエピソードもまた、おごり高ぶってしまった人間に対し神エホバが怒りの鉄槌を下すという戒め。神が住む天空にまで続く階段を建設しよう、我々にはその力が在る!、と騒ぎ出す人間達。驚くエホバ。人間が神に成り代わろうというのか。
レンガが足りない持ってきてくれ、と塔の上から声。あいよ、と下からカナヅチ。つまり言語不能に陥る人間。互いの言葉が全く通じなくなってしまった。そうなれば最早デタラメ、トンチンカン。何一つ事は進行しなくなり、バベルの塔建造は一気に中止へと追い込まれてしまう。エホバがそうさせたのだ。
核弾頭の完成、遺伝子組み換え成功、人類の快進撃は着々進む。より明るい未来、より快適な暮らしを目指してノアの方舟(はこぶね)、地球号は進む、と誰かが言った。
その舟、乗舟を断る権利はありますか。ノアって誰ぁれ?。
◆写真タイトル / パンドラの箱
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