Title 棄てられた帽子
日本社会に垂れ流される深刻で軽卒な “ 感動病 ”、 “ 夢追いかけ美しく羽ばたけ病 ” 。内容は、夢を追いかけ続ける限り明日は来る、未来が君を待っているから、だとか何だとか。
聞いた誰もが頷き応援してくれるからというネタバレ歓迎安心感があるからなのだろう、これさえ言っときゃ安全、安心と言わんばかりに新人歌手の似たもの新作歌詞が大安売りでステージ所狭しと並ぶ。
毎月毎年変わらぬ不文律、外国の楽曲には類を見ないお粗末さ。誰でも同じことばかり詞にするので遂に飽きられヒット曲も出ない。
しかし今オリンピックではメディアが性懲りもなく前面に押し出し文化人の失笑を買った。夢を諦めた人は数えきれない。過去も現在も、そして明日も、いついかなる時も数えきれない。
自身の才能のなさに見切りをつけて夢を捨てる。才能があっても、なくても、誰かの為に夢を捨てる。例えば、寝たきりの家族を介護するために栄転転勤の仕事を捨てる、喘息の子供のために危険な仕事を捨て残業の無い職につく。理由など数え上げればキリがない。
夢だ夢だと免罪符の様に崇高なるもののように連発するが、個人の夢など人生における優先順位はさほど高くはないものなのだ。
夢を追いかけ夢が叶えばイコール人に勇気が与えられるというものでもない。誰かを蹴落として夢を叶えたり、巧妙に立ち回って夢を叶えたり、そうしなければ手に入らないものなどこの世には無数にある。それほど世の中は厳しい。夢を追うこと自体はワタクシゴトだが、叶えるとなれば世間相手で百鬼真剣勝負しなければならない。
絶叫していいですか?。絶叫させて下さい !!。
夢を捨て、夢を諦め、親や配偶者、子供の為に歯を食いしばり毎日雨の日も風の日も職場に向かう人々がいる。上司にパワハラを受けセクハラを受けても戦いながら耐え忍ぶ人達がいる。
そして大晦日、TVで夢は叶う的な歌を家族みんなで聴いたあと、子供が言う。「お父さん、夢、諦めたんだよね確か。今の仕事つまんなくない?」「しょうがないんだよ」
夢を諦めた人間が自分を情けなく感じる社会。
子供の為に何かを我慢する。子供の将来を考えて。
子供は親のありがたみを感じにくい。夢を追って凄い職業につかなかった、いわゆるどこにでも転がっているフツーのつまんない石ころだから。平凡で特殊な才能もない夢破れた成れの果てだから。
夢を叶え偉そうにし、誰をも救わない人、自身さえ裏切る人など幾らでも居る。夢を諦め地道な職業に就き、結果誰かの支えになったり、夢とは違う新たな生きがいを見出したりする人も大勢いる。
幼い大人顔の子供達、そして短絡的なお気軽若者諸君。人として大切なことは、義務。思いやり。ひたむきさ。
優しくなくても構わない。優しい言葉を言ったかどうか、優しい事をしてくれたかどうか、よりもっともっと大切なことはね、
その人を思うかどうか。その人がいつも自分の傍にいると思っているかどうか。夫を、妻を、子供を、居て当たり前、空気の様に存在を認識しない人は無数にいる。けれども、それらの人々は何かに耐えている。耐えながら繰り返している。義務かもしれない。諦めかもしれない。日課というだけかもしれない。けれども誰かのためになり、誰かに尽くしていることになり、誰かに対して無意識のひたむきさを証明していることになるのかもしれない。
夢を追うなど実に簡単な事。誰にだって出来る。
オリンピック選手は夢を追い続け素晴らしい。
いいや、そんなことは別に素晴らしくもなんともない。誰だって夢なんていつでも追える。
もし彼ら彼女らに素晴らしい事があるとすれば、それはひたむきさだ。ひたむきさを押し通すには誰かの力添えが必要になる。協力が、バックアップが必要になる。それに甘える。感謝の気持ちを胸に抱き、それに応えよう、応えなければならない、人として。その思いを起爆剤に変え自身の競技への執念へと転化するのだ。人にもたらした感動は単なる結果のひとつにすぎない。
応援してくれた方々にひとことお願いします、など馬鹿げている。何故なら選手達一人一人、言葉に出来ない程の感謝を背負って1日1日を終え、そこへたどり着き、今その場に立っているのだから。
本当に聞かなければならないことは、
「そのひたむきさの正体は?」
メダルの数だけ感動がある。メダルの数しか感動がない。メダルに届かなければ夢が叶ったとは認めない。そんなバカげた妄想を喚起するかのような無責任な風潮は悔い改めなければならないはずなのに。
夢は商売になりやすい。だから煽る。煽り立てる。
一番残念なのは「ボクらは普通の人だから」という発言。
あなた達のひたむきさは普通ではない。簡単におっぽり投げてしまう人達が普通なのだ。
戦後焼け跡から立ち上がり日本を復興させた人々を普通と呼んで良いのか。ひたむきさは夢追いを超えないのか。
お願いです、行って下さい。超えるって。