普通

Title : Pマン

 

 

圧倒的な単一民族国家である我が国、日本。故に、良くも悪くも戦後より今日に至るまで足並みを揃えて来た。常識と言う名の共通価値観を携えて(たずさえて)だ。多国籍民族国家の人々の日常に “ 普通は〇〇 ”といった言い回しが使われることは稀だ。

皆一緒、がお約束だから、要するにアナタもワタシも同じ価値観ヨ、ツーカーなんだから細かいことコミュニケーションで理解し合わなくても大丈夫でしょ?という甘えが甘えを呼び、遂には傑出したリーダー不在の空中分解社会が完成した。

最近は野菜が高騰。シシトウより安いピーマンにしようと手にして思い出した。

昔、「頭がピーマン」という言葉が流行した。中身がカラッポという意味で登場、たちまちウケた。

ボクは異議を唱えた。ピーマンの中には種子が詰まっている。明日への、未来への存続の鍵が、と。

すると、梅干しの種ならデカいから問題かもだけどピーマンのは大したことないから無いのとほぼほぼ同じだという答えが返ってくる。それはマシな方で、大抵は何言ってんだろこの人、皆が楽しんでるのにクッダラないイチャモンつけちゃって、が大半の反応。

 

景色は誰にでも同じに見える。そう思い込んでいる人は多い。

花見、花見ず、鼻水

Title : 満開大回転

 

 

「暖冬のせいで桜が開花しているとTVで言ってたぜ。チャリで流して花見しようじゃないの」と友人。

「んなわけないだろう。今日、近所で梅が満開花盛りなのを見た。この地区はまだまだだ」とボク。

聞き分けの無い友人と毎年桜を鑑賞するポイントに自転車で向かう。途中、コンビニで彼は焼き芋を1本購入。桜を愛でながら食べる計画だと言う。ボクは様々な事態に対応可能なみたらし団子、しかも1本増量で4本となったものを購入。飲み物はポイント傍の自販機で。

湾岸部にある公園。行く途中、花見目当てであろうと思われる人々、自転車、マイカー族を一切見かけることもなくポイント到着。

沿岸部、海まで約5㎞、背丈の高い建物もなく、冷たさ身に染みる海風がダイレクトなポイントベンチに腰掛け眼前の桜集団に目を凝らす。

つぼみにやっとなっているものを寡黙に探す作業が静寂の公園一角で辛抱強く続く。

「あった!。つぼみがあった!あそこだ見ろ、ここの正面の木から左3本目の足元から2メートール上の…」

やはりな…。これは花見ではなくバードウォッチングならぬツボミウォッチングに他ならない。報道を何としてでも真実へと転化させたい彼の涙ぐましい努力には脱帽だ。

「そうだ…。芋を…」

焼き芋もみたらしも唇に触れると冷たい。周囲には誰もおらず、犬猫の姿もなし。こんな肌寒さ、犬なら何で此処へ連れて来たのだと飼い主に牙も剥けようが、ボクは人間。それもままならず。

「鼻水が垂れてるぞ」「そう?」拭きもしない彼の悲哀に満ちた横顔が哀れみを誘う。

 

日本は情報化社会ではない。少なくとも詳細情報ではなく誤解を生みやすい見出し情報が幅を利かせる。

どこかで桜が咲けば、あたかもそこここで咲いている印象を与える報道。口数少なく、本人が足を運んでのリポートでもない。他人の指示で言うだけなので情報内容に理解も興味もなし。

同じ東京でも地区によって桜の開花はバラバラ。そんなの関係ない。何故か全体が皆そうだ的な報道がスタイル。特徴。TV報道を真に受けて花見に出かけた人も結構いたと後日聞く。流石に沿岸部、湾岸部には居ないが。

嘘だと断言出来ない範囲であれば、誤解を招く見出し報道もアリ。それで少しでも人が動き需要へとたどり着く可能性があるならソッチの手法が良い良いというわけか。まあね。そうかもね。花見待ちわびウズウズしている視聴者多数。アオレ、アオレで盛り上げましょう。

苦手なものを克服出来ず

Title : なんじゃらほえ

 

 

苦手なものを克服するとは言っても今更キッパリ無理、というものはある。私の場合は第一に箸の持ち方。気持ちの持ちようでも何ともならない。

第二にギターのつまびき。独学でデタラメに覚えた為、永久に3本指でのつまびき。薬指と小指は一切使えず。スリーフィンガー奏法は3本指なだけに何の問題もないものの…。

第三。このブログもそう。開設時、操作を間違え本来はURLをhttpsにしなければならないところをhttpにしてしまうという絶望的結果に。

ヘタな癖をつけてしまうと一生そのまま、なんてあらゆることに当てはまる。笑える範囲なら良いが二度と取り返しのつかない世界へと埋没、なんていうのが最も恐ろしい。軽い気持ちで、が命取り。軽卒、うかつ、考えなし、結果の想像皆無。特に依存症に至るケースは恐ろしい。

結果を想像する癖、これほど大事なものはない。

 

雨と雪の違い

Title : お母さん、雨だよ

 

 

誰もが雨に濡れることを嫌う。氷雨ではなく温かな雨であっても。マシかどうかの違いだけ、でもやっぱり濡れたくない。

これが雪だとそうでもない。凄まじき積雪となる降り方なら別だが。

同じ水でも状態の違いで判断は変わる。外に出てゆくか、待つか。

ヤッカイごとに囲まれた。さあどうしよう。出ていくか、待つか。だが、待ってやり過ごす時間がない。

そのヤッカイごと、例えるなら雨か雪か。違いは大きく濡れるか濡れないか。

天から降る雨、雪は人的操作の及ばない世界。ヤッカイごとは人的操作の世界。雨を雪に変える知恵の問題ということになる。

雪に変えても問題は残る。積雪にならぬようにする。歩行に問題なしの範囲に留める。これは難題、確かにヤッカイ。

雨と雪の差は気温の高低。ならば金か有価証券のどちらで投資か、相続するか寄付するか、などなど…。

 

イジメ。これを雪だと世間は言う。雨に変わるのは被害者が自殺した時だと。

違う。最初からイジメというものはなく、強い攻撃である。本当の意味でのイジメという行為には、そもそも昔から殺意はない。

凄まじい積雪は命を奪う場合が多々生じる。ゆえに雪国の人々は細心の注意を払って冬をやり過ごす。デタラメに暮らして生き延びている訳ではない。

イジメという耳障りの良い言葉の裏に存在する殺意、それに対し幼き子らに雪国の知恵を自身でつけろというのか。

大抵の子は雨の中を出かけてゆく。命を守ろうとして土砂降りの中に。

ずぶ濡れで家路につく子。途中で雪に変わり、足を止め立ち尽くす子。

雨、雪、どちらでも同じ。その子には同じ。だって、ヤッカイごとなどという生易しいものではないのだから。

これは。このことは。

 

エプロンとセーラー服

Title : どッ、どげんしたらよかとねッ !!

 

 

消えて行った “ 象徴 ” というものがある。お母さん、といえばエプロン、娘といえばセーラー服。僅かに残り大半は消滅。日本人は外見によるイメージに激しく左右される傾向を持つ民族なので、時代の流れとはいえ、一度根付いた強烈なインパクトを持つ象徴が消滅するのは、かなりの不都合が生じる。

それらの象徴が実際の対象物をより一層魅力的にする、という事実。それが喪失すれば男性女性双方、その空いた魅力を埋める努力をしなければならない。

が、成功した者は少なく、象徴の消滅と共に誰もが等身大の評価を受け、依然に比べ、結果はかんばしくないと言える。

話は違うが制服無しの私服学校、これは賛否両論だが、言えてることは唯一つ。制服による想い出なし。

かつて日本人の象徴のひとつだった一重まぶた。ご存知の通り、こちらは大成功した。新しき象徴、二重瞼。もちろん象徴するものはK・A・W・A・I・I。

花粉症の季節開幕 / マルタは婚姻色遡上

Title : 杉花粉拡大写真〈約50万倍に拡大して表示〉

 

 

またぞろ両目の目頭 (めがしら) が異様に痒くなってまいりました。そう、皆さんご存知の花粉症の季節、憂鬱なる季節の到来なのでございます。通院しなければ生活に著しき支障をきたしてしまわれる方、市販の薬で間に合う方、薬なしで何とかやり過ごせる方、症状の個人差で随分と対処法が違うのですね?。

私の場合はかけばかくほど痒みが増す、という生き地獄なのでございますが、鼻水が止まらない方などに比べれば天国に等しいと友人にたしなめられてしまいました。言えてるかもしれません…。

昔は存在しなかった不都合症状、増えておりますね?。しかも一過性ではなく定着してしまうところが頭痛の種でもありましょう?。オゾン層の破壊でおちおち夏場の日焼けも危険となり楽しめなくなってしまいましたお方、いらっしゃいません?。地球温暖化などは、もうお手上げ、ワタクシ達が対策どうのこうのと言えもしない手の届かない問題なのでございましょう?。

夏場になると、田舎のあぜ道に生きたカブトムシを買える自販機が登場しました。お子様達は昆虫採集には関心がなく、ただカッコイイ出で立ちのカブトムシだけが欲しかったのでございましょ?。ひと昔前のお話…。今はそれを欲しがる子らもおりませんね?。

しかし、そんなことを考えておりましても仕方がございません。ただ自分の暮らしを黙々と続けるのみなのでございます。

 

というわけで来月四月、海より産卵遡上してくるマルタを狙った釣りに初めて挑戦しようと策を練っておる次第でございます。背中が銀、脇上段が黒、下段が真紅、腹が真っ白の4色マルタ。

形状が丸太のようなのでマルタと命名との事でございますが、私にはサッパリ丸太の様には見えないのでございます。むしろスマートで、どことなく、こう……。

とにかく多摩川河口域で待ち伏せしようと企んでおり怪しげな目で仕掛け図に視線を這わせております。狙いは60センチ。食べても余り美味しいものではないそうでございますね?。

ああ……そうなんですね?、と気落ちしたりも致しますが、とにかく挑戦してみたいと思っております。

多摩川河口域は漁業権が発生せず、釣りは無料。映画で昔『マルタの鷹』というのがございましたでしょう?。私のは『マルタはタダ』。無料で釣れるのでございます。

 

 

暴力描写の是非 / メッセージは何だったのか

Title : んん~ッ?。箱の中には何があったんだぁ~?、ホエッ、ホェェ~

 

どうしようもなく暴力的なやドラマや映画が満載のアメリカ。ボクはアメリカのクリエイターを尊敬する。何故、彼が彼女が幼児虐待に至ったのか、どうして彼や彼女がギャングになったのか、一人一人の過去、幼児体験、環境、ありとあらゆる人格や行動創成に至るプロセスを視聴者に紐解いて見せる。

だから悲惨な暴力作品を真剣に鑑賞出来る。花も実もあるからだ。人間を、人間の人生を、生きてゆくという困難さを、打開策に糸口を、選択肢を示唆してくれる。

要するに、存在に足る作品なのだ。作り手達の確かな使命感も心地よい。

日本の暴力的ドラマや作品にはそれがない。欠如している。何故なら人間として捉えられておらず、登場人物を単なる1キャラとしか見なしていない。人間に関心がない。実存の探求に関心がない。視聴者のよりよい手助けとなるようしのぎを削るという使命感も祈りもない。

全てとは言わない。だが、子供騙しの安直な作品が目に付く。先進国で中年の孤独者がトップの日本。どんな作品にも真摯な受け皿がない。手引きがない。正義の味方か悪人か、役割分担は単純明快でゲームとさして変わらない。それが日本のオリジナリティーだというなら時代にそぐわない。危険な影響を与えるだけ。

お前は日本ばかり攻撃すると言われるのは心外極まりない。自国を愛していなければ嫌われ者など買ってでない。

学ばないのは何故か。面倒臭いからだ。ただ、それだけだ。

仏様は見ておられます

Title : モニュメント下の神秘

 

 

ううううううぅう~ん ?! とか唸っちゃったりするのです。時々、唐突にですけども…。まぁ、ボクにはありがち。昨日はコレで、ひと唸り。

よく亡くなられた方を、仏様になったのだと言うのです。でも亡くなられた偉人像を仏像とは呼ばない日本人。どして…。日本人のその感覚に秘められた真実とは。なぁ~んて呟いてみたりもするのであります。

アレッ、そもそも仏様ってどういうものでしたでしょう、か?。出雲大社に集まるのは八百万の神 (やおよろずのかみ)。神様…。神様と仏様は違う存在でしたよね?。お客様は神様、とよく聞きますけど、その逆はねぇ……。

仏、で連想するのが仏陀 (ブッダ )、大仏様…。だとすれば亡くなられた仏教徒の方を仏様になられた、というのでしょうかねぇ…。それならツジツマは合いますけれども…。でもでも、日本人のキリスト教徒の方が亡くなられた場合、彼はイエス様になりました、彼女は今頃、天国でマリア様になられている事でしょう、なぁんて言わないと思うのであります。

アメリカでも絶対に有り得ないでしょう。どうして日本では亡くなられた方を仏様になると考えるのでしょう。仏様同様、来世に生まれ変わるのだという考えのもとになんでしょうか。

でもでも、キリストは復活しますが、信徒はイエス様同様に来世に生まれ変わらないので、亡くなられてイエス様、マリア様になったのだと言わないのでしょうか。

宗教思想はとってもむずかしいものだと思います。それを知ろうとすると信者になる事が要求されたりします。なる気はないものですから、曖昧知識のまま引き下がるわけなのです。

神社参拝、参拝客は自分が誰に対して拝んでいるのか、皆さん承知しているのでしょうかぁぁぁ…。白状しますと、ボク、自分で拝んでて良く分かりません。

 

ええと…。

 

言わぬが花よ、で自分探し

Title : 青い墨のバヤイ、嫌いっちゅうことなんだなコレが

 

 

実際、現実に、自分がかかわる人達を指し、知人友人にAは好きBは嫌い、と話すのは分かる。何らかの迷惑を被っている、癇に障る、虫が好かない。で、結論は出来ることならBなんぞは別の何処かへ行って欲しい。

世界中どこにでもある普通の感情。

現実ではなく、非現実で、視聴するドラマや映画、CDの歌手や役者、はたまたタレントに対してAは好きBは嫌い、と話すのも分かる。観ていて聞いていて不愉快。目障り。人気落ちればいいのに。

世界中どこにでもある普通の感情。

何故いちいち第三者に自分はBだのCが嫌いだと伝えなければならないのか。黙っていてもいいではないか。

とはいかない。黙っていられない。何故なら強い感情で抑えるのには一苦労を必要とするから。言わぬは身体に毒。

しかし、ミュージシャンや俳優、自分と実際に会ったり話したりすることのない相手。なのに、実際係わる人と同等の嫌悪感を示す。直接被害を被るわけでもないのに。何故。

私は何が好きで何が嫌い、な人間だ。

人間は生まれつき自分がどういう人間なのか第三者に理解してもらいたいという強い欲望を持っている。自己主張ともいう。一番シンプルで、初歩的な自己主張宣言なのだ、好き嫌い発言は。だから幼児にもそれは出来る。

相手が人とは限らない。浜辺に行けば、ここは風が強くて嫌い、あっちは風よけがあって好き、という具合。ただし、これは人としての性格性質、主義主張とは関係のない単なる生物反応。

要するに何処へ行こうとも、独りで部屋にこもりフトンひっかぶって目を閉じても、何が好き何が嫌い、からは絶対に逃げられない。

思い出される記憶にもそれは存在している。好きだった、嫌いだった、あれやらこれやら。

生きている限り自己主張は続く。好きか嫌いかを決定。人に伝えて終わりだと自己主張は苦痛の存在でしかない。

大抵の場合、続きがある。嫌いなら考えないようにする。無視、切り捨て、で解決する。決着させる。嫌いな気持ちが追ってくる場合もあるし、自ら好き好んで監視し一層嫌いなジレンマに浸り続ける場合もある。

好きな人 (物) をどうすれば嫌いになれるか。嫌いな人をどうすれば好きになれるか。をシュミレーションしたことがあるだろうか。

試みた結果、何かしらの答えが出る。その答えこそが、自分が宣言した自己主張のベストアンサーなのだ。

柑橘類 (かんきつるい)が嫌い。すっぱさゼロになれば好きになれるかも。スイカとかメロンは酸っぱさゼロで大好物だからね。

酸っぱくない柑橘類は存在しないので、酸っぱさがなくなったミカンは最早ミカンではない別の何か。つまりはミカンを好きになるのは無理。

つまり、生まれつきの食物嗜好、それは遺伝。私という人間の自己主張というよりはDNAの情報公開。主義主張とはあまり関係ない。生まれつきの性質公開。自分が生きながら意識して作り上げてゆくのが性格。

だから、好き嫌いで性格が分かってしまう訳。

Mama,Do you remember

Title : お母さん。ボクのあの麦わら帽子、どうしたでしょうね

 

 

かつては夏の代名詞だったと聞く麦わら帽子。何処かの田舎では今尚そうなのかもしれない。

イマドキは、もし麦わら帽子が何かの機会にメディアで取り上げられることがあったとしても、きっとこんな具合の編集になるのではないのかなあと空想する。

麦わらを帽子に使用するようになった経緯とは。

麦わらのココがこんなに凄い。その秘められた効用とは。

現在、僅かに残った麦わら帽子職人の仕事場に密着。その匠とは。

 

ふう~ん。そうかあ~。ためになる有難いお話だな~。

 

夏の青空、草原に映えるその色。陽だまり、木漏れ日を映し出すその美しさ。絵日記の片隅に詩でも書きたくなるような懐かしさ。麦わら帽子には夏の日の想い出を内包し続ける魔法の力がある。まるで夏休みそのものかもしれない。

 

そんなの知るか。気取ってんな。第一、都会でかぶったらカッペ丸出しだろうが。