Title : タマラ・ド・レンピッカ画集
『肖像神話』より抜粋(パルコ出版)
今日も雨。うたた寝していたらこんなことボンヤリ考えてしまいました。
あたたかな 昼下がり
通りすぎる雨に
濡れることを 夢に見るよ
風に吹かれて 胸に残る想い出と
さよならを するために
〈ビリー・バンバン / さよならをするために〉
温かな昼下がりの通り雨。天気雨かもしれません。この楽曲は石坂浩二さん作詞で1972年の発表。そう…、この年は川端康成ガス自殺、
あさま山荘事件。
過激な学生運動の歪んだ結末、日本の将来への漠然とした不安。学生達は衝撃を受け、ヘルメットとこん棒を捨て、大学校門のバリケードを解き、髪を切り、企業へ就職していったそうです。
就職が決まって 髪を切って来た時
もう若くないさと きみに言い訳したね
〈松任谷由実 / いちご白書をもう一度〉
天気雨って不思議ですよね。奇妙ですよね。だから別名がキツネの嫁入り。そう、まるでキツネにつままれたみたいな…。
誰だって雨に濡れるのは不快。通常はね。自らすすんで雨に濡れたい、という主人公は日本を良い国にするという大義から逃げた体罰として雨に濡れたいと呟くのです。氷雨ではなく、生ぬるい、生温かい雨に。しかも通り雨なのですぐに通り過ぎてゆく…。自分のずるさを告白しているようです。
1960年に発表された西田佐知子の楽曲、アカシヤの雨が止む時では、壮絶な学生運動(日米安保条約反対運動)の果て、無力感にさいなまれた学生達の姿を、その恋人達である女性を通して表現したのでしょう。純でひたむきな若さ…。
アカシヤの雨にうたれて
このまま 死んでしまいたい
夜が明ける 日が昇る
朝の光の その中で
冷たくなった 私を見つけて あのひとは
涙を流して くれるでしょうか
〈西田佐知子 / アカシヤの雨が止むとき〉
どうしてアカシヤなのでしょう。所説あるようで明確な答えは出ていません。ボク個人の解釈は、いちご白書です。つまり、アカシヤの花が咲くのは春。
彼は就職して大義を捨てた。仕事に就き、大義を捨てたことを一番よく知っている恋人を耐え切れずに捨てたのではないでしょうか。
私を抜け殻にしてしまう冷たい雨、あたたかな昼下がりの通り雨。どちらも自らすすんで打たれる雨。雨は雨、どっちもおな………