漆器に映える和食の色どり / 日の本の国の朱色 / 日本が誇る伝統工芸品

Title : 漆器にナムル飯〈大根、わらび、ほうれん草、もやし〉

 

 

再び、畠中昭一による栗の木漆塗りの一品。前記事の飯汁椀と同じもので色違いの朱色。

漆黒の黒に比べ栗の肌あい、木目が非常に鮮明。使い込むほどに栗の木肌の凹凸が五指にありありと伝わるようになるという優れもの。

写真の椀底、洗い残しがないように座の円形は非常になめらかに滑り込む工夫がなされている。つまり、溝を作らない。

現在、栗の木を用いた漆器職人はほとんど居ない(畠中昭一本人の弁)というのは残念至極。

 

いにしえより日本はこの朱色(古代朱と呼ばれる)を野山に配して目印とした。鳥居の木肌を守り武将の兜を浮き立たせる。

葛飾北斎の富岳三十六景、『赤富士』を思い出された方も多いはず。

スタンダールの名作『赤と黒』、赤は軍人を指し黒は僧侶を指した。対照的な赤と黒だが漆塗の黒と赤はそうではない。

漆黒の闇に昇る太陽が朱なのだ。

朱とは八百万の神であり、日の本、日本を指す。

迷いが吹っ切れ朝の陽ざしが訪れる時、朱は真っ新な白地に座している。

 

これが日本の国旗だ。

あくまで私見だが。

漆の器で日本人を実感 / 高級感漂う和食器の王道 / 麗しの漆黒

Title : 豚汁と鰹のタタキ

 

 

漆。うるし。漆塗り。漆塗りの器(うつわ)。漆の器を知らずして和食を語ることなかれ。余りの軽さに驚嘆する漆の器は使用者が高齢になった時にこそ威力を発揮するのだろう。アツアツの料理を冷まさず、器を持っても熱さを感じない。

漆黒の闇、と評されるほどウルシの黒は深い。スターウォーズのダースベイダーの仮面は漆塗りに違いない。暗黒界を制するダースがウルシを知らぬ訳はない。ダースがスターウォーズ第一作出演前、極秘のうちに来日したことと関係があるとしか思えない(ウソウソ)。

写真の器は栗の木に漆を塗ったもので、使い込むほどにツヤが増すと言われる栗の木漆職人、伝統工芸士の畠中昭一、匠の手による越前漆器。一器18000円で購入。

安価な食材も漆の器に盛り付ければこの通り、大層なご立派さ。

川柳の役割を担っていた歌謡曲 / 消滅したメッセンジャー / 大ヒット曲のない時代

Title : どうしマウス?

 

 

遠い昔から、庶民が生活のあらゆる題材をモチーフに川柳を詠まずにはおれなかったように、戦後生まれた歌謡曲なる流行歌は、意図せずして日本人の聖書的道しるべとなり得る重要な役割を担った。

例えば、経済大国目指しヒタ走る狂喜の沙汰ともいえる企業戦士達の時代には、

♪ およげタイヤキくん

が大ヒットする。トタン屋根の上のネコよろしく、日々鉄板の上で焼けつくような悲鳴を上げるタイヤキであるところの労働者達。店のオジサンであるところの上司とケンカして、海に逃げ込んだタイヤキ社員は脱サラ、落伍者をほのめかしている。

結局、釣り人のおじさんに釣られたタイヤキは食べられてしまう。明らかにこの詞には警告の意味合いがあり、そのメッセージは日本中の労働者達に、いましめとしてクサビのごとく胸の奥深くにまで打ち込まれたのだった。

 

三種の神器を入手すべく、物欲爆発起爆装置であるところの高度成長期には、ウワッツラだけではいけません、愛する人も大事にネ、などと逆説的な

♪ 骨まで愛して

が大ヒットする。何にもいらない、欲しくない、あなたがいれば幸せよ、とけなげに歌う女性は水商売の女性であったり専業主婦であったりするのであろうが、どちらにせよ女性の社会的地位が非常に低かった当時の雰囲気が歌詞から匂い立ってくるようだ。

バブルお祭り騒ぎの時期は、ようこそここへ、遊ぼうよパラダイスなどといった歌詞が浮かれ爆発したし、高齢化社会に至っては、千の風になってが大ヒットした。つまり、大ヒット曲とはその時代時代の日本人の総意であったのだ。それが大前提であったのだ。

それが終わった。

それはもう終わった。

もう川柳的歌謡曲はほとんど存在しなくなり、以前のような本物の列島全土を通り抜ける疾風ヒット曲は姿を消した。

日本人を一丸と出来る統一メッセンジャーであるところの歌謡曲は衰退した。バイブルなき社会は民族の共感スローガンを失った。

笛吹けど踊らない。

今この時、てんでバラバラとなった日本人達は、唯一の利点である一枚岩主義を見失い、流転の憂き目を知ってか知らずか空虚顔。

 

恐らく、この先も修正はないだろう。

時代の恩恵を無視する瞬間 / 変わらないアナログな心 / 置手紙の誠意

Title : 露天風呂が最高じゃないなんて週に6度しか頭洗わない奴に言われたくないネ

 

 

時代の進歩。コンピューター時代の生活様式激変は過去の歴史の中でも極めて異例なもの。すっかりコンピューター感覚に慣れたものの、

結婚の家庭生活を突如捨て蒸発する時、同棲の家庭生活投げうち突然失踪する時、まさにその瞬間、行くものは残される者に対して別れを

メールするのか。

手紙の置手紙にするのか。

時代の様式や価値観が変わろうとも人の信条、心情、物事の捉え方は依然として個々異なるものだ。決断の時、それを自分自身が一番思い知らされるのかもしれない。

 

貧しき人々、とりわけ、力のない未成年者がお金を稼げる社会公認のアルバイトの代表格に新聞配達があった。新聞絶対時代、それはまとまった収入源として力のない者達には有難くて涙の出る頼みの綱だった。今それはほとんどない。

便利が万能の魔法ではいないことを知る時、思い知らされる時、

それは誰もが経験する絶句の瞬間でもある。

人間の心はアナログのまま。それを思い出させる日常の事件に乾杯。置き手紙とメール、伝えたんだから大して違わないじゃないか、ケジメはつけたんだから。

そう。

置手紙には誠意を感じる。その人の余韻を、残り香を感じる。私だけだろうか。

風立ちぬ 、今は何? / 今日から私は心細い旅人

Title : 抹茶色にそまる秋は既にないキャンペーン、イメージキャラ・ポスター

 

 

松田聖子の歌に ♪ 風立ちぬ という名曲があるではないですか。

♪ 夏から秋への 不思議な旅です

って。ひどく頷けてしまうではないですか。ものすごい酷暑から突然何の脈絡もなくブツッとね。アア、これからスポホツの秋、アウトドアの季節、爽快きわまりないステキな秋と思いきや連日の梅雨。さ、寒いよぅ…。

これから日本の梅雨は秋になりましたから宜しく、みたいなねぇ…。そりゃ昔から秋の長雨って言いますけれどもねぇぇ…。最近の日本て四季というより三季ベリーマッチって感じではあーりませんか?。確かに不思議な旅ですよホント。心細い旅人…私達ってそんな感じしません?。

草原のテラスで手紙 も気を付けていないとゲリラ豪雨っちゅうやつがありますからね最近。草が生い茂っているところも気を付けていないと外来生物に噛まれたり有り得ますでしょ。昔はサトウキビ畑にヨシハルという名のハブがいて噛まれたりした人がいたようですけど。

そんなわけで、もはや日本に春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)はありません。今後は夏冬(なっとう)だけです。

随分昔に大橋純子さんは ♪ たそがれマイラブ の歌詞の中、今は夏…と今は冬…としか歌っておらず春と秋を歌詞から抜き去りました。これは、明らかに日本が将来的には四季が夏と冬の二季になるのだということを的確に予言していたのだと言えるのではないでしょうか。

苦痛のない地獄 / やさしさと思いやりが作った地獄 / 窓ガラスの磨き方のコツ

Title : 「オレのメガネも綺麗にしてくれぇ」

 

 

以前の話で恐縮だが、かつて私はある住職に、

「苦痛のない地獄とは何か」と問われ返答出来なかったことがあり、以来、私はそのことを思い出すにつけ、今だ答えを出せないでいる我が身の未熟さを恥じた。

その答えは、ある日突然私のフトコロに飛び込んで来た。

何気なくTVを観ていると、ある家庭の犬が映し出された。立派に成犬している白い犬は一家の主婦に大層可愛がられている様子。

主婦は明るい陽光浴びながら、庭を目前に窓を濡れタオルで磨き始める。すると、その犬もまた飼い主の真隣で両前足をガラスにもたせかけ、半身起こして窓ガラスをペロペロと丹念に舐め始めたではないか。

主婦は笑いながら、

「お手伝いしてくれるのは本当に嬉しいのだけれどねぇ…(苦笑)」

その瞬間、私の中で何かが弾(はじ)けた。

これだ!。これだったのか、苦痛のない地獄とは!。

飼い犬をたしなめることさえ出来ない。犬のマゴコロを踏みにじってしまう。だが、薄汚れて見える舐め跡はご近所さんから

「まあ、あの奥さん、窓ふきもしないでホントに自堕落ね」

などと陰口をきかれてしまう恐れもある。心やさしき飼い主は犬に向かって、

「今日もお手伝いしてくれてありがとね」

と言って犬の頭をやさしく撫でる。

犬は少しはにかみながら、嬉しそうに自分が磨き上げた窓ガラスを見やる。これまでそうしてきたように。それはこれからもずっと続く。

 

苦痛のない地獄。何という美しき世界!。

嫁姑(よめしゅうとめ)バトル / 勝敗の決め手となったもの

Title : ビールを歩き飲みするフレデリック・シュート28歳バーテンダー。父のアルが息子をフットボール選手にすべくシュートと名付けたが、結局息子は姑(しゅうと)にさえならなかった

 

 

姑(しゅうとめ、或いは、しゅうと)。同じ字を使うとは意味不明。

 

姑「カツ子さん、アナタまた皿洗いを面倒くさがって昨日の夕飯、キッチンデスクの上にサランラップ敷いて、お惣菜その上に丸投げして子供達に食べさせたでしょッ!。どうしてそんな姑息なこと(こそくなこと)するのよッ」

嫁「そんなこと言ったってお義母さん、姑息(こそく)って姑の息って書くんでしょッ?!。だったらお義母さんのすること全部姑息なことじゃないですかあーッ!、息してるんだからあーッ!、お互い様でしょッ!」

姑「何ですって?!、それは聞捨て(ききずて)ならないわねー、ちょっと待ってて今調べてみるから!」

 

姑「ここに…姑息って、一時しのぎって書いてあるわ…。やだアタシ…アタシの呼吸って一時しのぎなのかしら…(顔面蒼白)」

嫁「そう書いてあるんなら、そうなんじゃないですか」

 

そうなんだろうか…。

上司の説教に不快感あらわな部下 / 見せかけ説教にウンザリしてしまうワケ

Title : 何だコイツ、偉そうなメガネかけて説教しやがって!

 

 

上司の説教を若い部下達がひどく嫌い不快感露わにすると言う。

どうも世の中、日本語の意味を理解出来ていない人が多いように思う。

説教とは自身の為になる、非常にありがたき助言。

あなたのためを思っている、と言われあれこれ指示され不快に感じるのは何故か。

実は、アナタのために入っているのではなく本人が愚痴まじりに自分の意のままにのままに相手を操れるよう都合のいい型にはめようとしている姑息(こそく)な意図がありありと感じられてしまうからだ。

シタゴコロみえみえは本人の底の浅さ。つまりは未熟な浅はかさ。

その口から他人に対して発せられるものは説教ではない。何故なら何一つ説いてない。説く、は説。つまり真理に基づいた理論的な仮説。経験による思考分析の蓄積による、こうだと確信した仮説。

その仮説に誰も共感や感動出来ないので不快感が生まれる。

ああしろこうしろ、こういうやり方にしろ、の強制は指導ではなく私道。説教とは程遠い接強。

人が聞き、話した人の存在を認めたくなってしまうのが説教なのだ。

そんな達人が稀になった日本社会だからだろう、今や説教イコール、小言何様上から目線、とあいなってしまった。

お粗末。

 

 

「アッ!、メガネ外した方が全然イケてるよ!素顔でいきなよ素顔で!」

Shape of You / ED SHEERAN / 剥き出しの心 / 時代の素顔

Title : 一卵性双生児 登場間近

 

 

祖国イギリスで圧倒的な支持を得た ♪ シェイプ・オブ・ユー ♪ 引っ下げたエド・シーランは、2018年グラミー賞においても最優秀ポップ・ヴォーカル・アルバム賞に輝いた。

ラヴソングだが、♪ お前の体に恋しちまったぜ

という歌詞は時代のバイブレーションをダイレクトに感じ素晴らしい作品の一語に尽きる。

腹が減り、食い放題の店に彼女と出かけてゆき、皿ごとたいらげる勢いで食べ、なおかつバッグにもお持ち帰りの食い物を詰め込む。

思えば、永らく続いたアナログ時代、人々は未だ名前さえ知らぬITという時代に恋い焦がれ、無数のSF作品を制作し続けた。

IT全盛目前を控える今、人々はMUSICそのものに人間臭い剥き出しの欲望をぶつける。

半導体に振り回される世界に生き、その恩恵を享受する。心は、感情は、アナログ時代ほど多くのカテゴリーに分類出来なくなった。微妙な感情は大きな感情である喜怒哀楽の裏に埋没してしまう。

電子世界から解放されたい自身のスピリッツは音楽に身を委ねる時、反動であるかのようにワイルドでストレートな欲望に包まれる。

心を解き放つジャズのセッション、心の嘆きを歌うブルース、反戦歌としてのフォーク、フォークロック、ヘヴィーメタル、やがて自分自身をインフォメーションし裏路地の壁の落書きを詳細に歌うラップ、それらを踏み越え、それらのどれとも違う、そんな何かが生まれた。

 

大らかに心の欲望を歌える国。それを素直に支持し熱狂出来る国こそ羨ましい。ブルーノ・マーズに代表されるように、歌詞表現こそは本当に自由であるべきなのだ。

日本で ♪ お前の体に恋している などという歌詞の歌が発表されたなら、まず絶対にドンビキとなり無視される。一部の人間がエロくていいなどと茶化すのが関の山。まずTVの歌番組からは完全にシャットアウトされる。

何故って、日本に於いてこのような歌詞は、女性達から間違いなく変質者扱いされ、世間からはいかがわしき不良分子のレッテルを貼られる。時代の変遷など気づきもしない。

イギリスやアメリカでこの歌に激怒する女性もいると思うが、そんなことでグラミーは自由表現をシャットアウトなどしない。

 

この違いは何か。アメリカと日本の違いは何か。

歌とは何かを知っている国と、全く知らない国の違いだ。

007とバットマン / 歴史と伝統の差 / どちらも魅力的

Title : 歴史のプリズム

 

 

イギリスが誇る007最新映画が公開される。007シリーズのほとんどは登場するデスクにPCがない。だが時は流れ、今やTVドラマから映画作品に至るまで,想像絶するハイテクシーンのオンパレード。

アメリカが誇るバットマン、登場当初に比べれば格段のコスチュームアップ、機材アップは、目を見張るを通り越して最早単独ハイテク軍隊。かたや007は演じる役者が変わることだけが目玉の感さえある。007に総合格闘技007が似合わない理由はタキシードと言う名の伝統の重みかもしれない。

すなわち、既に007は超人を目指してはおらず、極端な見方をすればスパイという職業従事者の域を出ない。つまりはスーパーヒーロー足り得ない。代わりに、格調の高さ、揺るぎない大人の香りは超人の魅力をしのぎさえする。

イギリスの伝統が007を超越した存在にすることを拒んでいる。それがイギリスらしさであり誇りだと主張しているかのようだ。

伝統は発展を阻害し、それを上回る恩恵を人々にもたらす。

伝 ⇒ 人が云う

統 ⇒ 糸が充実

人伝えに続いてゆくもの、切れない糸は細々と確実に受け継がれてゆくのだろう。無論、その充足感は半端ない誇りに違いない。