Title : 「会場の皆様ッ、盛大な拍手をお願い致しますッ!気持ちよく歌って頂くためにもッ !!」
日本にはアイドルなる存在の方々がおられる。その人そのものが何らかの魅力を有し、そのこと自体が憧れの対象となり得る方々ということらしい。
確かにドルは世界通貨であろうし、ズバリその人の魅力ということであるならば、各業種のモデルもアイドル同義、PCのデルに匹敵すると言えなくもない。パチンコ台もデルが人気だろうし、車やバイクのアイドリング(空フカシ)も発信前の馴らしということだろう。
だがしかし、アイドルをあがめたてまつる人々は、自分の恋愛に向けての馴らし運転でアイドル命と言っていない場合が多いのであって、確かに確かに、
アイドルと握手をする権利を得る為にCDをジャカスカ買っていたのでは、実際のデート資金など手元に残りはしないであろうと思われる。
昔とは違い、今は本人達が自身の事をアイドルと呼ぶ。こ、こっぱずかしいではないか!と思えたが、そういうジャンルに属している私だから、人気が凄かろうがスゴクなかろうが、アイドルなのだ、ということらしかった。
確かにドルという語が使われ組み込まれる物には、ハンドルがありサドルもある。つまり、それがないと全く持ってお話にならないじゃないの、といった類のものなのである。
もはや現在の日本に至っては、アイドルなる存在は必要欠くべからざる存在。政治経済、医療保険、そういった現実の話題には一切触れず、非現実世界にファンをいざなう、まさに夢見がちな妖精のような存在なのである。
非現実的存在であるアイドルの誰かやグループを、国民的人気とうたう放送局には苦笑するほかない。
つまり、日本国民は非現実的なものに憧れ、社会全般諸問題に背を向けるような人々の集合体だと言っているに等しいからだ。
アイドル解散をゴールデンタイムトップニュースで報じる国営放送。
アメリカのアカデミー賞は、最高に優れた映画作品に与えられる賞ではなく、あくまで、アカデミックな、つまり社会的に有意義な、公共性のある学びの主題を投げかけた作品に与えられるものなのである。
社会的貢献に背を向け、社会的に意義あるもの、世の中を良くしよう、役に立とうを語らず、歌わない。愛は地球を救う限定でハイ終わり、では底の浅さがミエミエなのだが、大丈夫。そんなことを言う人はほとんどチマタで見当たらない。
よく、愛ドールという言い回しを目にするが、なるほど言い得て妙。不確かな定義の愛を語り、その愛には何の現実性もない。
だが、応援している人でさえこう言うのだ。
別にいいんじゃない、アイドルのことぐらいでそこまで真剣に考えなくても
と。
真剣になるほどではないアイドル。それが国民的なもの?。
マジで?。