梅雨時のお手入れ / 心にも除湿器をね

 

 

 

 

毎年梅雨入り宣言を耳にするたび、条件反射のようにボクの頭に浮かぶこと。それは雨という言葉。五月病よりも先に浮かんでしまう。

流行り歌の詞中、日本人は雨という気象現象を “ 悲しい後ろ向き要素 ” として好んで取り入れる。そしてそれは人々の大いなる共感を呼ぶ。日本人独特の民族感覚なのだから、皆たちまち自然に理解が出来る。

例えば、三善英史の “ 雨 ” 。 雨に濡れながら、道行く人にこずかれても身動きひとつしない彼女は、恋しい男性を待ち続けている…。雨の慕情、雨の御堂筋、長崎は今日も雨だった、水色の雨、レイニーブルー、と雨をテーマに大ヒットした楽曲は数え上げればきりがない。悲恋の象徴としての 雨は梅雨時ならずとも引っ張りだこだ。

♪  雨  雨  降れ降れ  母さんが  ジャノメでお迎え  嬉しいな  と歌われる前向きな歌も稀に存在するものの、こちらは童謡。恋愛要素が皆無な子供向けゆえの、雨に対する好意的で無邪気な受け止め。

さだまさしの “ 雨宿り ” は、恋愛をテーマにおくユニークなハッピーエンド・ソングの典型だが、恋愛そのものというよりも日本特有の赤い糸伝説、不思議な縁 ( えにし ) が主題だとも言える。その点で童謡 “ 雨降り ” とは決定的な一線を引く。

同じ雨をモチーフとした楽曲でも、海外では日本のソレと解釈が多分に異なる。

CCRの “ 雨を見たかい ” では、~ キミは嵐の後に天気雨が降るのを見たことがあるかい?~ と視聴者に問いかける。また、アルバート・ハモンドの ” カリフォルニアの青い空 ” では、~ 滅多に雨が降らないカリフォルニアで雨が降る時、それは酷いドシャブリになることが多い ~ と歌われるが、双方共に何やら意味深。どちらの歌詞も恋愛を歌ってはおらず、奇妙な現象を見た時は要注意なんだよ、と警告とも取れるような教訓めいたものを感じずにはいられない。

これがビートルズの “ ペニーレイン ” ともなると更に難解。意味深どころか哲学的でさえある。歌詞の内容はこんな感じ。土砂降りの雨でも傘をささない主義の銀行員が床屋で順番待ちをしている。そこへ消防士がドシャブリの中、雨宿りしに床屋へ飛び込んでくる。仕事がら、大量の水の扱いに慣れている消防士のハズなのに、アタフタしている姿が滑稽だという。雨に濡れればヤッカイな紙幣を扱う銀行員の方が雨にたじろかず、自身がビショ濡れになる場面が度々あるはずの消防士が雨に濡れてうろたえる。これって “ 人生えてしてこんなもの? ” と視聴者に疑問を投げかけいるかのよう。

ボブ・ディランも歌った “ 君は大きな存在 ” では、成功した彼女を讃える主人公の男性、彼女の成功を喜んだあと、やがて独りドシャブリの雨の中へ戻ってゆく。一見、いや、一聴、悲恋がテーマの悲しい歌のような気がするが、決してそうではない。雨は2人の恋愛とは直接関係がなく、あくまで雨は男性の置かれている過酷な環境を象徴しているのだ。その点で日本人の感覚とは一線を引く。

日本と海外、雨にまつわる感覚の違いぶりは凄い。雨の降り方、降雨量の違いで受け止め方が違うような気はしなくもない。要するに、風土的な違いかなと。湿度が高くジメジメした日本の雨とカラッとした海外の雨とでは、そこに住む人々の気持ちに働きかける雨の作用が違うのは至極当然なのかもしれない。

梅雨時になるたび思うこと。普段は気にかけずに通り過ぎるアッレヤラコレヤラも、こんな風に細々と考え込んでしまう。雨には人の心を閉じ込める力も、あるのかな?、と。

 

◆写真タイトル / 雨が蓮葉を離れない