Title : 美味しく食べられるうちに…
★染弥。そめや。このエピソードの主人公。
ヒールの足がチョット気になるほど足早のOL染弥。
腕時計は19:20を表示。地下から地上に出るや
染弥は走り始めた。秋の風が首元に心地良い。
不快感と爽快感が混然一体と化した人並みを、
鮎のようにすり抜けてゆく彼女の黒髪は
渓流の流れさながら。
「間に合ってるじゃない。楽勝」
目指す美容室のマーマレイド・ライトが見えた途端、
バッテリー切れの失速。ふくらはぎ安堵。呼吸整え、染弥入店。
ソファーでスマ堀り中の音美 ( ねみ)、
やや疲れ気味の笑みを奮い立たせて
「こんにちは」 「こんにちわ」
バッグ預け、白衣をまとい直ちに客は着席。
亜麻色の髪をクロス編みした音美 ( ねみ ) の
細く白い腕 ( 羨ましいわ、いつもそう思う ) が
染弥のすそ髪を柔らかく手櫛。
「いつもと同じでお願いします」
に微笑を鏡で見せながら頷く美容師。それを確認した染弥、
これでアタシの役目は終わりネ、と両目を閉じれば
忽ち ( たちまち ) ワープで夢のほとり。そうなの、
鮎は岩場の影でリラックス・タイム。
起こさないでネ、それじゃまた。
裏道袋小路でここは静か。
( 今、祇園あたりの裏路地に居るかもアタシ )。
OLの眠りが重さを増す。軽やかにハサミ操る音美 ( ねみ ) は
九の一 (くのいち )。まるで忍び。
染弥は髪を切られている自覚すらない。
シャギーを入れながらこぼれる涙。手が離せない美容師。
今、ポケットのハンカチで頬をぬぐえば、ハサミの髪フリカケが
お気に入りのハンカチに付いてしまう。
取るのが大変、絶対にダメ。鼻をすするのも我慢。
(このヒト鋭いから目を覚ましてしまうわ)。
カットを終えるや、音も立てず店奥へ泳ぎ去るもう1人の鮎。
狭い店内に巻きあがる風の気配が、
染弥を覚醒 ( 意識を取り戻す ) させた。
壁時計を見上げると8時40分。寝てた?アタシ。
にこやかな笑顔で舞い戻る音美 ( ねみ)。それをボンヤリ眺める染弥。
(このヒトって無口だからアタシ好き。
気を使わなくて済むのって最高。友達みたい )。
友達みたいな彼女は、鮮やかにイスを半回転させ
染弥の前に手鏡をかざす。いつも通りの満足な仕上がり。
(文句なしね。ここ8年ずっとこの髪型、
多分これからも変わらない。ネミさんとは違う。
このヒトは毎回髪型違ってる。マ、美容師さんだからね)。
「おつかれさまでした」
の声に軽く頷き、トレーの上に2万円。
値段が変わっていても、これなら足りる。
無用な会話をしなくて済むから、アタシはいつも2万円。
以心伝心、アウンの呼吸。
すぐさまティーン!。軽やかなレジの女性音は終業合図。
お釣りとレシート受け取り
「ありがとうご… 「今度、他の髪型にでも挑戦してみましょうか」
染弥の冷たいドアノブを押す手が止まる。
「え?」
「何となく…どうかなって思って。今の髪型すごく似合ってるから…
きっと他の髪型もイケちゃうんじゃないかなって…」
このヒトこんな声だっけ。
「ああ…。考えときます」
グッと力を込めてドアを押せば、街の香りが強く優しく流入してくる。
“ かすかな気まずさ ”
という名の落ち葉は、渓流にゆっくり舞い降りた刹那、
たちまち凄まじい速度で下流行き。だからアタシもさっさと退散。
振り返って背後の美容師に軽く会釈。瞬間、染弥の眼が見開かれる。
ネミのドア押す左手薬指に ( 銀の結婚指輪がないっ ) 。
私の視力は1.5。
今晩どうしよ。何食べよ。
買って帰るか、どっかで食べて帰るか、ええと
ココからなら隣町のラリカンシエでパスタスー……
( 見間違え? )。