うちのすぐ目と鼻の先に大層な利発(頭の良い)なノブちゃんなる小学1年生がいた。
母はボクに向かって「ああ、ああ。▽▽もノブちゃんみたいに勉強が出来て大人しい子だったら良かったのに」
と山芋を堀り上げるに必要な1メートル、それを超えるほどの溜息をつき、床にしゃがんで丸まったまま、茹でたボール一杯のシャコを食べる手を止めてしまった。
そんな母の姿より、ボクには産まれて初めて見る赤紫色の茹でシャコなる物体の方が実に奇異に映った。こんなザリガニは薄気味悪い。ズルズルと後ずさりし階下へ逃げる。
ノブちゃんは野球好きなため、日に焼けて丸焦げになった肌をしており、鏡モチのような真っ白肌をしているボクとは全く対照的な級長であった。ボクは日に焼けても赤くなるだけ、たちまち真っ白な肌に戻ってしまう男。
ゆえに、ボクの山猿ぶりを知らなかった商店街のオバサンなどは、ボクをナマッちろくて大人しい園児だと勝手にイメージしていて、
ある日ボクが大きなウシガエルを小脇に抱え(というより羽交い絞めにして)ランニングシャツ、半ズボン泥まみれ姿で道端をフラフラ歩いているサマを目撃、卒倒しそうになったそうだ。
このヒトはボクの身に何か大変な惨事が起きたに違いないと勘違いし、ボクの手を引き母の元へ連れ帰ろうとしたのだが、気味の悪いカエルを両腕で抱え込んでいるので仕方なくボクの後頭部を押しながら親元へと送り届ける。
「奥さん!、奥さんッ!。お子さんが大変よッ!!」
玄関口の緊迫した声に戦慄した母、転がる様に台所から躍り出る。今度は一体何をやらかしたのかッ!!。
「どうしたんですッ!」
「よく分からないけど泥だらけよ!。何かあったんじゃないですかッ!」
「▽▽!。何があったの?」
「これ。…。ボッ、ボッて鳴いてたから、何処に隠れてるかすぐ分かった」
「え?!。他にはッ?!」
「他にはない。これだけ」と寂しそうにウシガエルを両手で母に差し出す。
「捨ててきなさいッ!!」
話が脇道にそれてしまったが、ノブちゃんが利発であるというのは、ボクにはどうでもいいことであった。園児にも既に嫉妬の感情は間違いなくあるが、そんなことに嫉妬するボクではなかった。
ある日曜の昼、ノブちゃんがお父さんと道端でキャッチボールをしているのを見る。
ノブちゃんは真っ新(まっさら)な野球のユニフォームを着ていた。
野球のユニフォームというものはテレビで見たことがある。それを何故ノブちゃんが着れているのだろう!。
ボクは激しく動揺しながら自宅にとってかえし、洗濯機に突っ込んであった白ランニングをイスに乗って引きずり出し、父の卓上筆記箱から黒マジックをひったくると、ランニングの胸元にミミズがのたくった様なデタラメ模様を殴り書き(本人は英語のつもり)。
すかさず幼稚園制服からそれに着替え、あたふたとノブちゃん親子の元へ取って返す。
ボール行き交う二人の間に仁王立ち、腕を得意げに組んでふんぞり返るボク。
だが2人はコチラを全く見ず、まるで示し合わせたかのように、サッサと帰ってしまった。そういえば、ボクはノブちゃんと話したことがない。
「ノブちゃんと話したことない」と母に言ってみる。
「アラそう。この前、台風でどしゃぶりだった時、アンタが風呂敷マントで道の真ん中に立って、走って来たノブちゃんのお母さんに、何者だ名乗れーッ!!って通せんぼしたでしょ。お母さんズブ濡れになったって怒ってたじゃないの。口きいちゃいけませんって言われてるんじゃないの?」
そうなのか。全然知らなかった。初耳だが?。
ある夏の日。夕立の間中、ボクは沼でひたすらギンヤンマのヤゴ獲りに興じていた。
いつしか雨はやんでいて、ふと顔を上げると真っ黒な樹木群のシルエットの遥か上、紫色の黄昏が大きく大きく衣を広げている。
セミしぐれが降り注ぐ中、ボクは大量のヤゴを子供用バケツに入れ、意気揚々と家路をたどる。
すると珍しいことにノブちゃんちの前で会社帰りのオジサン ( ノブちゃんの父 ) に話しかけられた。
「おッ!。何が入っているのかな?」
微笑みながらバケツを覗き込んだ顔が徐々に暗い表情へと変貌。
「▽▽ちゃん。トンボは益虫といって蚊を食べてくれる良い虫なんだよ。だからこれは返してあげようね」
ボクは訳も分からぬままノブちゃんのお父さんに連れられて、先ほどまで半身つかっていた沼岸へ…。
既にお父さんの顔がほとんど見えないほど、辺りは暗くなっている。彼は静かにバケツの中の水と共に多数のヤゴを沼へ解き放った。
その時、遠くで雷が鳴った。
はっきり覚えている。あの音。園児でも。
◆写真タイトル / 日の当たる場所