おはようございますの帽子屋さん / 誰だってやさしい人ばかり / 憎んでも疲れるだけ

Title : オファー、用がございますの防止嫌〈ぼうしや〉さん

 

 

 

かつて谷山浩子は ♪ お早うございますの帽子屋さん ♪ という本人作詞作曲の歌の中でこう告げた。

 

誰だってみんな やさしい人ばかり

だから お早うございますの 帽子屋さん

 

誰だって微笑む時はやさしい人ばかり、とも歌われる。何十年も前の歌だ。

その当時は、まだまだ素直にこんな歌詞が世に出せる時代だったのだろう。

今、果たしてどれほどの人の共感を呼べるか、正直言って大いに怪しい。

この楽曲の中で、今でも多くの人々が共有感を持つことが可能な歌詞があるとすれば、

 

疲れるだけですよ 憎んでみたところで

だからお早うございますの 帽子屋さん

 

だろう。色とりどりの帽子を、皆に

ひとつずつくれるという帽子屋さん。

その帽子が象徴するものは一体何なのだろうか。

 

今は男女共々みんな髪型が崩れるのを怖れ、

厳寒期以外はほとんど帽子を被らない。

マスクで顔を覆うが頭は丸出し。

つまり、ヘアスタイルど~よ、顔は見ないでね。

他人への警戒感、不安感、

♪ そして手をつないで ♪

の歌詞はありえない。

 

とにかく時代は変わった。

日本島国安全神話は、世界レベルでは今なお生きてはいるものの、

ふた昔前より、日本は確実に安全ではなくなったと

いうのが世間の実感だろう。

お早うございますの帽子屋さんは

確実に絵空事になってしまった。しかしながら、皆誰だって

この歌の歌詞に描かれている世間の有り方

の方が好きに決まっている。だからなのか、

ボクは時々、この歌を口ずさんでいる自分に気が付くことがある。

 

この絵空事は、忘れたくはない。

冬のサナトリウム / あがた森魚 / 呼吸困難の苦しさ / イジメの苦しさ

Title 冷たい心の風景

 

 

 

ほんの少しだけれど 陽が射し始めた

雪明かり 誘蛾灯 誰が来るもんか  独人(ひとり)

 

荒野(あれの)から 山径(やまみち)へ 出会いは 幻

弄びし 夏もや  何が見えたんだろか   抱擁て(だいて)

 

十九歳 十月 窓から 旅立ち

壁で ザビエルも ベッドで 千代紙も  泣いた

 

 

◆冬のサナトリウム (あがた森魚 / 作詞作曲)

 

サナトリウム(隔離結核診療所)に幽閉された子。

呼吸困難の苦しさ。

歌詞からは性別が分からない。

ベッドという手枷足枷 (てかせあしかせ ) を組み敷いてはいるが、

負けたのは自分だ、と知っている子。

窓の外に見える景色から夢想したのだろうか。

 

出会いは幻。

誰と誰が出会ったというのだろう。

荒れ野から山径へ至り、そのあと誰かと出会ったのだろうか。

この不可思議な感覚。

注射器が吸い上げる悲しみ色の薬品の匂いが染みつく

白いレースのカーテン越し、

僅かな陽射しや月光を夏もやと、重ね合わせただけなのだろうか。

千代紙といえば女の子のよう。

女の子か、そのように優しく繊細な男の子か。

ザビエルが描かれた絵が飾られていたのか、絵葉書か。

 

壁のザビエルといえば、楽曲『薔薇瑠璃学園』を思い浮かべてしまう。

あがた森魚の名盤中の名盤 “ 乙女の浪漫 ” には、

冬のサナトリウムと共にその楽曲が納められている。

“冬のサナトリウム / あがた森魚 / 呼吸困難の苦しさ / イジメの苦しさ” の続きを読む

恋しなければ傷つかない / 夢を捨てる / 決断の歌

Title : 物語を待つ栞〈しおり〉

恋。物心つく美しき季節の始まりに、

子供が夢を捨てる。諦める。一体何が起きたのか。

少女は自身を中国人形だという…。

共産圏では極く当然?。

それなら日本は民主主義国家、日本の子供は夢一杯?。

中国人達が理解に苦しんでいるそうだ。

経済大国日本で毎年2万人の自殺者。その多くが若者。

何故?。どうして?。誰か彼らに教えてあげて欲しい。

子供の頃に夢を捨てた少女、チャイニーズ・ドール。

感情は失せ、人間ではなくなり

生きた屍と化してしまった。

ある男性が突然彼女の心を動かし始める。再び息を吹き返す人形。

人間としての鼓動。彼女には奇跡、魔法に等しい。

黒猫の顔は闇。

黒猫に姿を変えたなら再び私の表情は失せる。

アナタにときめく私の表情は、闇に溶けて見えなくなってしまう。

動き出した心に涙が流れ始める。恋が成就する保証はない。

天の川に身を投げる彼女を見て

全ての星は息を潜めるだろう。

人間を取り戻そうとする彼女は、たとえ焼け死んでも引かないと呟く。

彼が彼女に再生させる勇気,、生きる勇気、を与えたのだ。

◆中国人形 (チャイニーズドール / 尾崎亜美 / 作詞作曲) 杏里

子供の頃に 夢を捨てた そうよ 私は中国人形

星が舞う夜 魔法は起こる あなたの愛で 動き始める

黒猫に 変わる前に その腕で 抱きしめて

この恋に 賭ける はじめての涙 チャイニーズ・ドール

自分達の関係は恋人同士なのか、結婚を約束出来る程の仲なのか。

幼い二人は、自分達の愛の深さを世間一般の形式で計ろうとした。

未熟ゆえの手段。結果はサヨナラ。

もっと心と心で向き合えば良かったのに、

形式にばかり囚われ大切なものを失ってしまった。

取るに足らない大人の決め事を真似ようとしたばかりに。

◆花のように鳥のように (石坂まさを / 作詞、筒美京平 / 作曲) 郷ひろみ

形式や夢では アア ないのさ 心が求めて アア いたのさ

今になってそれに気づき 唇かんでいるよ

どうして二人は サヨナラを告げたの 意味など ないのに

大きな選択、大きな決断。

目測を誤り、二度と結べない絆の事実を前に、ただうなだれるだけ。

何故、目測を誤ってしまったのだろう。

何故、いともたやすく絆を断ち切ってしまえたのか。

信じ切れなかったからだ。

でも何を…。

相手を。自分を。

二人の心以外の何かで二人の愛を計ってしまった。

◆青春のあやまち (unknown) トワ・エ・モア

どこに 私は居ても いつも あなたを感じる

なぜにあの時 二人は別れた 大事な愛を 愚かに二人捨てた

朝の 電車の中で 街の 人ごみの中で

今日も あなたの姿を求める

愛の大きさ 今頃 知った私

自問自答しながらも、心は既に答を得ている。

恋人同士になれば、その後二人はどうなるのか。それさえ心は答を得ている。

それでも止めることの出来ない狂おしい想い。自分達の情熱以外は

一切の要素を考慮に入れず始める物語。

二人は大人だ。その結末に耐え切る自信が、ある。

“恋しなければ傷つかない / 夢を捨てる / 決断の歌” の続きを読む

日本人と風 / 千の風 / 風に吹かれて

Title : 風

 

 

 

日本人は風に心を託す。風に歌を託す。そうせずにはいられない。

端田宣彦とシューベルツの大ヒット曲 “  ” 。

作詞家の北山修はそのカレッジフォーク名曲の中、

 

ちょっぴり寂しくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ

としたため、人は誰も耐え切れず振り返る、とつづれ織る。

 

見えない何かを日本人の心象風景に映し出して見せるもの、それが風。

心に反映される何かとは幻だろうか。錯覚だろうか。それとも記憶の断片?。

時の経過の中で埋没してしまった大切な誰かの面影?、

忘れかけた本来の自分の在るべき姿?。

いずれにしても、それは束の間の幻影。

一瞬にして心の中を吹き抜けて行ってしまうもの。

 

静岡の網代に行ってみるとよく分かる。

ひっきりなしに風が四方八方から吹きすさび、

髪は連獅子、お肌は風疲れ。

おのれの心を見つめるどころか、心まで海に持っていかれてしまう

吹き飛ばされてしまう。油断も隙もありゃしない。

やはり網代は干し魚が絶品。

ボクは熱海駅前の乾物屋でコアジの干物を買い求め、

帰宅後食してあまりの旨さに悶絶しそうになった程だ。

やはり心と風の囁き合いは一瞬のリンクに限る。

 

 

北山修は “ ” (作曲 / 端田宣彦)の詩の中で

 

振り返らずただひとり一歩ずつ 振り返らず泣かないで歩くんだ

 

と結んでいる。

名作映画 “ 風と共に去りぬ ” の劇中ラスト、

ヒロインは自分に言い聞かせるようにこう呟いた。

 

「明日は明日の風が吹く」

 

“ 風に吹かれていこう ” (作詞作曲 / 山県すみこ)の歌詞では

 

風に吹かれて行こう 生きることが今

つらく いやになったら 風に吹かれてゆこう

 

とささやきかける。傷心に寄り添う風。そんなことも風には出来てしまう。

 

“ サトウキビ畑 ” (作詞作曲 / 寺島尚彦)で繰り返される一節において、

風はざわわ ざわわ ざわわと表現され、やはり前出の “ 風 ” と同じく

 

広いさとうきび畑は 風が通り過ぎるだけ

 

と語られる。何もない風、姿なき風。実態のない風。何もない所を吹き抜けるだけの何もない風。

日本人は、確かにそこには何もないと同調しながら、

それ以上にそこには何かが有ると実感する。

それは哲学的な禅思想を指しているかもしれないし、

小説で言えば行間を読むということなのかもしれない。

かけあい漫才で言えば、間(ま)なのかもしれないし、

阿吽(あうん)の呼吸を指しているかもしれない。

女性特有の勘であるかもしれないし、

PC画面上の電子マネーを指しているだけなのかもしれない。

 

 

南沙織の“ 哀愁のページ ” (作詞 / 有馬美恵子、作曲 / 筒美京平)では

 

秋の風が吹いて舟をたたむ頃 あんな幸せもに 別れが来るのね

 

と自身に言い聞かせる。

松田聖子の “ 風立ちぬ ”(作詞 / 松本隆、作曲 / 大瀧詠一) も共鳴するかのように、

 

風立ちぬ今は秋 今日から私は心の旅人

 

とズバリこの本題を言い当てる。

 

野口五郎の “ 季節風 ” (作詞 / 有馬美恵子、作曲 / 筒美京平)には、

心の整理がつかない主人公苦悩の様子が

 

過ぎゆく風 泣いてる日がある

 

と語り口調で切々と自問自答される。

風は思い出エピソードそのもの。だから風が行ってしまえば物語は終わる。

それは過去になるし、記憶になるし傷にも勲章にも成り得る。

記憶の内容次第で、風はそよ風にもなるし熱風にも寒風にもなる。

豪雨を巻き込む台風にもなれば、つむじ風にも変容する。

 

世俗的な吹き抜けてゆく風を

“ 風俗 ”

と呼び、時代の風、通り過ぎてゆく永続性のないものと位置付ける。

流れ行くと書き

“ 流行 ”

と読む。それは風を指している。

だがひとたび吹き去った風は、再び向かい風として

突如ボクらの前に立ちふさがり、再開の困惑をもたらしてみたりもする。

 

“日本人と風 / 千の風 / 風に吹かれて” の続きを読む

逆転の一行 / 作詞家岡本おさみ / 襟裳岬

Title 夜空とうたた寝

 

 

 

あまりに有名な楽曲 『 襟裳岬 (岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲) 』。

誰しもの耳に残る印象的な一節が話題となった。

 

“ 襟裳の春は 何もない春です ”

 

“ 何もない春 ” という “ 春 ” にほとんど馴染みがなかったことから、

人々は軽い違和感を覚えながらも、

此の楽曲に大いなる興味と関心を寄せずにはおれなかったのだろう。

秀でた森進一の歌唱力、楽曲の旋律については今更語るべくもないが、

やはり注目すべきは作詞者の手法。中でも特に高く評価すべきはこの一節。

 

きみは二杯めだよね コーヒーカップに 角砂糖を ひとつだったね

 

ともすればサラリと聴き流してしまうこの一節、

実はこの歌の生命線を担っていると言っても過言ではない。

何故、コーヒーを入れる時に交わしたささいな会話を、

作詞者は限定される文字数の中にどうしても入れたかったのか。

 

遠方より訪ねて来た友人。その友人との関係は

さほど深くはないのかもしれない。

過去に一度こうして飲んだことがあるだけの、

友人というよりは唯の知人に過ぎないだけの人なのかもしれない。

幾度か語っただけの相手。

その1日の思い出を何度も何度も噛みしめながら、

誰も尋ねて来ることのない岬で、

人恋しい夜を1日また1日数え積み上げる日常。

あの日きみは、一杯目はコーヒーだけの味を味わいたくて

ブラックだと言ったね。

でも二杯目は砂糖をひとつと決めているって。

あの日のことは皆覚えているよと、

相手に面と向かっては気恥ずかしくて言えない。

でも、この親愛の情は訪ねて来てくれた相手には伝えたい。

何もない場所だからこそ、人は何かで埋めたい。心を。時を。

 

きみは二杯めだよね コーヒーカップに 角砂糖を ひとつだったね

 

たった一行の詩に、

襟裳岬に人の温もりが有る、

何もない春ではなかった、という思いを込めることが出来る詩人。

そういう詩人が減る昨今ではある。

 

 

 

 

 

 

悲しすぎるから / 窓 / 人を試す歌

Title : まだ子供のお花だよ

 

 

 

歌謡曲とは不思議なものだ。人々の共感を呼べば呼ぶ程

その楽曲は多大な支持を得ていわゆる大ヒットとなる。

至極当然の結果、そこには何の違和感もない。

ところが、ここに

非常に奇妙で不可解な楽曲がある。

この楽曲は、間違いなく多くの人々の共感を呼ぶ。

多くの人々の心に入り込んでくる。

誰もが一度や二度は経験したことがあるはずの

エピソードが切々と綴られてゆく。

その曲中場面は、あたかも舞台劇を見るかのように

聴く人々の脳裏をかすめてゆく。

まるで、聴く人々ひとりひとりの過去を

再び舞い上がらせてしまう追憶のメリーゴーランドだ。

 

窓。

 

この曲は美しくも悲しい旋律を持ち、

一度聴いたら忘れないであろう覚えやすいメロディーに終始する。

にもかかわらず、この曲はいつの時代も

人々の前から必ず忽然 (こつぜん) と姿を消してしまう。

キラ星の如くに生まれては消えてゆく歌謡曲の中に紛れ込み、

手慣れてでもいるかのように消えて無くなってしまう。

何故か。

哀し過ぎるからだ。本当の意味で悲し過ぎるからだ。

決して報われることのない深い悲しみが聴く人々の心を揺さぶり、

リスナーはその重みに耐えきれずに

この楽曲を葬り去ってしまう。

それほどこの楽曲には本物の悲しみがある。

 

イジメは子供の世界にも大人の世界にも存在する。

イジメの様に意図的な個人攻撃にはまだ対処法がある。

だが、この楽曲のエピソードの様な

不作為の行為に対しては対処法がない。

その悲しさと苦しさは、私達皆が知っている。

つまり共感を呼ぶ。呼ぶからこそ、つらい。

人を試す歌なのかもしれない。

 

自身が幸福を手に入れ、うかつな言動や怠惰怠慢で隙を見せ、

手に入れたはずの幸せが手の平からこぼれ落ちてしまわぬよう、

自戒と戒めの意味でこの曲を聴き続ける場合、

この曲は空恐ろしい程の力を持つ。つまり最大の味方となってくれるだろう。

 

検索をかけてみたところ、流石はGoogle、

YahooとYouTube、同名の楽曲が多い中、

後藤啓子が歌っているものがアップされていた。

今現在、哀しみのさ中にある人は視聴しないことを勧める。

慰めのための楽曲ではない。手に入れた幸福を見張るための楽曲である。

 

 

◆窓 (犬丸秀 / 作詞 作曲)

 

あなたと あの人の 幸せの裏庭で 懸命に咲いていた 花があったの

ゆっくりと流れる 夢のようなロマンスを

目を凝らし 目立たずに 見守っていたの

あたためた恋心 庭のスズメ達が 聞きつけて 悲しんで 風に知らせた

風達も涙ぐみ あの窓を叩いた

窓 窓 窓 窓 窓 窓 窓 窓……

 

あなたの あの窓の向こう側から聴こえる 喜びの あの歌は

とても大きくなっていた

気づくと二人は 庭を通り過ぎて あの人は無意識に 私を踏んでった

蹴散らされて くしゃくしゃになった私の愛は

咲くことが出来ずに 窓を見上げた

あの窓は 変わらずに 曇りさえしなかった

窓窓窓窓 窓窓窓窓……

 

吹き抜ける時間は 私を見放して 虫達を引き寄せた 花は枯れてた

横たえた この身に 話しかける草もなく

干からびた花びらは もうすぐ落ちる

蹴散らされて くしゃくしゃになった私の愛は

咲くことが出来ずに 窓を見上げた

あの窓は変わらずに曇りさえしなかった

窓窓窓 窓窓窓 窓窓窓………

 

 

 

報われることのない人の想い。

恋愛に限らず、それは数限りなく

行き合う人と人のもつれ合いの中、日々誰しもが経験する。

それを呟く人も居れば飲みこむ人もいる。叫ぶ人も泣く人も。

 

人は花ではない。話せるのだし何処へでも行ける。

この楽曲はその素晴らしさを改めて今、私達に教えてくれる。