日本人と風 / 千の風 / 風に吹かれて

Title : 風

 

 

 

日本人は風に心を託す。風に歌を託す。そうせずにはいられない。

端田宣彦とシューベルツの大ヒット曲 “  ” 。

作詞家の北山修はそのカレッジフォーク名曲の中、

 

ちょっぴり寂しくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ

としたため、人は誰も耐え切れず振り返る、とつづれ織る。

 

見えない何かを日本人の心象風景に映し出して見せるもの、それが風。

心に反映される何かとは幻だろうか。錯覚だろうか。それとも記憶の断片?。

時の経過の中で埋没してしまった大切な誰かの面影?、

忘れかけた本来の自分の在るべき姿?。

いずれにしても、それは束の間の幻影。

一瞬にして心の中を吹き抜けて行ってしまうもの。

 

静岡の網代に行ってみるとよく分かる。

ひっきりなしに風が四方八方から吹きすさび、

髪は連獅子、お肌は風疲れ。

おのれの心を見つめるどころか、心まで海に持っていかれてしまう

吹き飛ばされてしまう。油断も隙もありゃしない。

やはり網代は干し魚が絶品。

ボクは熱海駅前の乾物屋でコアジの干物を買い求め、

帰宅後食してあまりの旨さに悶絶しそうになった程だ。

やはり心と風の囁き合いは一瞬のリンクに限る。

 

 

北山修は “ ” (作曲 / 端田宣彦)の詩の中で

 

振り返らずただひとり一歩ずつ 振り返らず泣かないで歩くんだ

 

と結んでいる。

名作映画 “ 風と共に去りぬ ” の劇中ラスト、

ヒロインは自分に言い聞かせるようにこう呟いた。

 

「明日は明日の風が吹く」

 

“ 風に吹かれていこう ” (作詞作曲 / 山県すみこ)の歌詞では

 

風に吹かれて行こう 生きることが今

つらく いやになったら 風に吹かれてゆこう

 

とささやきかける。傷心に寄り添う風。そんなことも風には出来てしまう。

 

“ サトウキビ畑 ” (作詞作曲 / 寺島尚彦)で繰り返される一節において、

風はざわわ ざわわ ざわわと表現され、やはり前出の “ 風 ” と同じく

 

広いさとうきび畑は 風が通り過ぎるだけ

 

と語られる。何もない風、姿なき風。実態のない風。何もない所を吹き抜けるだけの何もない風。

日本人は、確かにそこには何もないと同調しながら、

それ以上にそこには何かが有ると実感する。

それは哲学的な禅思想を指しているかもしれないし、

小説で言えば行間を読むということなのかもしれない。

かけあい漫才で言えば、間(ま)なのかもしれないし、

阿吽(あうん)の呼吸を指しているかもしれない。

女性特有の勘であるかもしれないし、

PC画面上の電子マネーを指しているだけなのかもしれない。

 

 

南沙織の“ 哀愁のページ ” (作詞 / 有馬美恵子、作曲 / 筒美京平)では

 

秋の風が吹いて舟をたたむ頃 あんな幸せもに 別れが来るのね

 

と自身に言い聞かせる。

松田聖子の “ 風立ちぬ ”(作詞 / 松本隆、作曲 / 大瀧詠一) も共鳴するかのように、

 

風立ちぬ今は秋 今日から私は心の旅人

 

とズバリこの本題を言い当てる。

 

野口五郎の “ 季節風 ” (作詞 / 有馬美恵子、作曲 / 筒美京平)には、

心の整理がつかない主人公苦悩の様子が

 

過ぎゆく風 泣いてる日がある

 

と語り口調で切々と自問自答される。

風は思い出エピソードそのもの。だから風が行ってしまえば物語は終わる。

それは過去になるし、記憶になるし傷にも勲章にも成り得る。

記憶の内容次第で、風はそよ風にもなるし熱風にも寒風にもなる。

豪雨を巻き込む台風にもなれば、つむじ風にも変容する。

 

世俗的な吹き抜けてゆく風を

“ 風俗 ”

と呼び、時代の風、通り過ぎてゆく永続性のないものと位置付ける。

流れ行くと書き

“ 流行 ”

と読む。それは風を指している。

だがひとたび吹き去った風は、再び向かい風として

突如ボクらの前に立ちふさがり、再開の困惑をもたらしてみたりもする。

 

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逆転の一行 / 作詞家岡本おさみ / 襟裳岬

Title 夜空とうたた寝

 

 

 

あまりに有名な楽曲 『 襟裳岬 (岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲) 』。

誰しもの耳に残る印象的な一節が話題となった。

 

“ 襟裳の春は 何もない春です ”

 

“ 何もない春 ” という “ 春 ” にほとんど馴染みがなかったことから、

人々は軽い違和感を覚えながらも、

此の楽曲に大いなる興味と関心を寄せずにはおれなかったのだろう。

秀でた森進一の歌唱力、楽曲の旋律については今更語るべくもないが、

やはり注目すべきは作詞者の手法。中でも特に高く評価すべきはこの一節。

 

きみは二杯めだよね コーヒーカップに 角砂糖を ひとつだったね

 

ともすればサラリと聴き流してしまうこの一節、

実はこの歌の生命線を担っていると言っても過言ではない。

何故、コーヒーを入れる時に交わしたささいな会話を、

作詞者は限定される文字数の中にどうしても入れたかったのか。

 

遠方より訪ねて来た友人。その友人との関係は

さほど深くはないのかもしれない。

過去に一度こうして飲んだことがあるだけの、

友人というよりは唯の知人に過ぎないだけの人なのかもしれない。

幾度か語っただけの相手。

その1日の思い出を何度も何度も噛みしめながら、

誰も尋ねて来ることのない岬で、

人恋しい夜を1日また1日数え積み上げる日常。

あの日きみは、一杯目はコーヒーだけの味を味わいたくて

ブラックだと言ったね。

でも二杯目は砂糖をひとつと決めているって。

あの日のことは皆覚えているよと、

相手に面と向かっては気恥ずかしくて言えない。

でも、この親愛の情は訪ねて来てくれた相手には伝えたい。

何もない場所だからこそ、人は何かで埋めたい。心を。時を。

 

きみは二杯めだよね コーヒーカップに 角砂糖を ひとつだったね

 

たった一行の詩に、

襟裳岬に人の温もりが有る、

何もない春ではなかった、という思いを込めることが出来る詩人。

そういう詩人が減る昨今ではある。

 

 

 

 

 

 

悲しすぎるから / 窓 / 人を試す歌

Title : まだ子供のお花だよ

 

 

 

歌謡曲とは不思議なものだ。人々の共感を呼べば呼ぶ程

その楽曲は多大な支持を得ていわゆる大ヒットとなる。

至極当然の結果、そこには何の違和感もない。

ところが、ここに

非常に奇妙で不可解な楽曲がある。

この楽曲は、間違いなく多くの人々の共感を呼ぶ。

多くの人々の心に入り込んでくる。

誰もが一度や二度は経験したことがあるはずの

エピソードが切々と綴られてゆく。

その曲中場面は、あたかも舞台劇を見るかのように

聴く人々の脳裏をかすめてゆく。

まるで、聴く人々ひとりひとりの過去を

再び舞い上がらせてしまう追憶のメリーゴーランドだ。

 

窓。

 

この曲は美しくも悲しい旋律を持ち、

一度聴いたら忘れないであろう覚えやすいメロディーに終始する。

にもかかわらず、この曲はいつの時代も

人々の前から必ず忽然 (こつぜん) と姿を消してしまう。

キラ星の如くに生まれては消えてゆく歌謡曲の中に紛れ込み、

手慣れてでもいるかのように消えて無くなってしまう。

何故か。

哀し過ぎるからだ。本当の意味で悲し過ぎるからだ。

決して報われることのない深い悲しみが聴く人々の心を揺さぶり、

リスナーはその重みに耐えきれずに

この楽曲を葬り去ってしまう。

それほどこの楽曲には本物の悲しみがある。

 

イジメは子供の世界にも大人の世界にも存在する。

イジメの様に意図的な個人攻撃にはまだ対処法がある。

だが、この楽曲のエピソードの様な

不作為の行為に対しては対処法がない。

その悲しさと苦しさは、私達皆が知っている。

つまり共感を呼ぶ。呼ぶからこそ、つらい。

人を試す歌なのかもしれない。

 

自身が幸福を手に入れ、うかつな言動や怠惰怠慢で隙を見せ、

手に入れたはずの幸せが手の平からこぼれ落ちてしまわぬよう、

自戒と戒めの意味でこの曲を聴き続ける場合、

この曲は空恐ろしい程の力を持つ。つまり最大の味方となってくれるだろう。

 

検索をかけてみたところ、流石はGoogle、

YahooとYouTube、同名の楽曲が多い中、

後藤啓子が歌っているものがアップされていた。

今現在、哀しみのさ中にある人は視聴しないことを勧める。

慰めのための楽曲ではない。手に入れた幸福を見張るための楽曲である。

 

 

◆窓 (犬丸秀 / 作詞 作曲)

 

あなたと あの人の 幸せの裏庭で 懸命に咲いていた 花があったの

ゆっくりと流れる 夢のようなロマンスを

目を凝らし 目立たずに 見守っていたの

あたためた恋心 庭のスズメ達が 聞きつけて 悲しんで 風に知らせた

風達も涙ぐみ あの窓を叩いた

窓 窓 窓 窓 窓 窓 窓 窓……

 

あなたの あの窓の向こう側から聴こえる 喜びの あの歌は

とても大きくなっていた

気づくと二人は 庭を通り過ぎて あの人は無意識に 私を踏んでった

蹴散らされて くしゃくしゃになった私の愛は

咲くことが出来ずに 窓を見上げた

あの窓は 変わらずに 曇りさえしなかった

窓窓窓窓 窓窓窓窓……

 

吹き抜ける時間は 私を見放して 虫達を引き寄せた 花は枯れてた

横たえた この身に 話しかける草もなく

干からびた花びらは もうすぐ落ちる

蹴散らされて くしゃくしゃになった私の愛は

咲くことが出来ずに 窓を見上げた

あの窓は変わらずに曇りさえしなかった

窓窓窓 窓窓窓 窓窓窓………

 

 

 

報われることのない人の想い。

恋愛に限らず、それは数限りなく

行き合う人と人のもつれ合いの中、日々誰しもが経験する。

それを呟く人も居れば飲みこむ人もいる。叫ぶ人も泣く人も。

 

人は花ではない。話せるのだし何処へでも行ける。

この楽曲はその素晴らしさを改めて今、私達に教えてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

二極化 / 新しい始まり / どうぞこのまま

Title : どうぞこのまま、は楽なまま

 

 

“ 新しい始まりさ ” と “ どうぞこのまま ”。

相反する願いは常に人々の心の中でせめぎ合う。

故に、古きを知らず新しきことのみ知りたがる日本人にさえ、

雨が大地に浸み込むように,

密やかに歌い継がれているのだろう。

 

あせた夕日に包まれて 今 昔のボクを捨てよう、

と歌われるサンディーの ♪ GOODBYE・MORNING。

 

それは馬鹿げた憧れか

冷めたコーヒーのようなもの

だからいつまでも このまま

 

と歌われる丸山圭子の

♪ どうぞこのまま。

 

沈みゆく色褪せた夕日と、真っ新な白いスケッチブックのような朝焼け

との対比。この楽曲は旅立ちを意味する。

 

熱いコーヒーが憧れの香りなら、冷めたコーヒーもまた、

色褪せた夕日なのか。

だが、丸山圭子は時の移ろいを経過を語らず、

あせた夕日の代わりに曇りガラスを伝わる雨の滴の様に、

と心の空模様をなぞらえてみせる。

降りやまないで欲しいと。こちらは明らかに見送る側の楽曲。

 

沈む夕日から始まりの朝焼けへ。

時は流れて、今ではキミの面影を忘れてしまったよ、と語る主人公。

 

冷めたコーヒーを再び火にかける者はいない。

どうぞこのまま、の願いは

夕日と朝焼けの繰り返しとは明らかに違う。

時の経過による変化に抗おうとする、

どうぞこのまま。

 

けだるくアンニュイに、今の現状に留まる自分に固執する心。

変わりたくはないと呟き続ける気持ち。

どんなに技術革新が起ころうとも、

人の心ほどアップグレードやバージョンアップが難しい物はない。

理路整然とした方程式を、

いともたやすく感情が却下してしまう。

 

どうぞこのまま、を指示する人。

明日は全てが変わるだろう、新しい始まりさ、を指示する人。

 

現状維持か現状打破か。

これほどの二極化を、

かつて日本人は今ほど経験してはいない。

 

ひとかけらの純情 / 南沙織 / 有馬三恵子の想い

Title : 星を見失って

 

 

 

いつも雨降りなの 二人して待ち合わす時

顔を見合わせたわ しみじみと楽しくて

あの恋の初めの日を 誰かここへ連れてきて欲しいの

あの燃える目をしていた 熱いヒトにもう一度会いたい

 

いつもレクイエムを あの部屋で聴かされたのね

ぎこちない手つきの お茶にさえ ときめいて

 

何故 思いがけない時 冷めてゆくの あんなにも愛して

まだ信じられないのよ あなたからの つらそうなサヨナラ

 

何も実らずに いつも終わるのね 若い涙ひとつふたつ

今はいいけど

あの恋の初めの日を だれかここへ連れてきてほしいの

あの胸のうずくような恋をしてるひとになら 分かるわ

 

 

“ ひとかけらの純情 ” (作詞 / 有馬三恵子、作曲 / 筒美京平)。

 

衝撃のデビューを飾った南沙織。

日の出の勢いだった時期に彼女が歌い、素晴らしい楽曲であった割には、

ボクが思うよりも評価が低かった。

それは歌詞に託されたメッセージを

ティーンエイジャー達が読み解けなかったからではないか

とボクは疑っている。

意味が良く分からない。大したことは歌われていない。

そう判断されてしまったのだとしたら、全く残念でならない。

ボクの詞解釈は以下の通り。

 

 

その一生を神に捧げ仕える神父を志していた彼。

彼女に魅せられた彼は、やがて燃えるような恋情に抗い切れず

彼女と交際を始める。

一方で、神と歩む道を捨てきれない彼の葛藤は

中途半端な形となって現れる。

傘で顔を隠し、関係者にデートを目撃されることを避ける。

純粋無垢な彼女が決して気づくことのない彼の心の秘密。

 

彼は自身の気持ちを確かめたくて、あるいは

自分が信じる世界を彼女に伝えたくて、

自室でレクイエムをかけた。

彼女には、心安らぐ音楽をかけた、とだけ単純に解釈されたのかもしれない。

これ以上彼女と付き合いを続ければ

自分は聖職者への道を断念しなければならない。

 

彼は決断した。

 

突然彼女の前から姿を消したのだ。無責任な行動かもしれない。

彼女は傷つくが、今ならまだ、きっと彼女は大丈夫。

彼女の若さが、涙が、それを癒して立ち直らせてくれるだろう。

 

彼女が見た燃える目。それは、

神と共に歩もうとする彼が、

一瞬見せた清廉な志の輝きだったのかもしれない。

 

ひとかけら、それは彼のものだったのか、彼女のものだったのか…。

 

世界は複雑。人それぞれで

世界という事実は、いかようにも変わるから。

 

 

 

◆ ひとかけらの純情、アルフィーの演奏と歌もなかなかですヨ。さすが。彼らは絶対いい曲は見逃しませんネ。

 

 

 

 

ステイション / 見送る人と見送られる人 / 頬を伝う涙

Title : 切れたリボン

 

 

 

汽車。電車。そして、駅。

ただの…単なる移動手段にすぎないのに。

人が乗り、そして降りる。ただそれだけの場所でしかないというのに。

 

頬を伝う涙。

 

こらえきれずにしゃがみこむ人。

ちぎれんばかりに振られる手。

その姿を視界に入れたその瞬間、

こみあげてくる喜びに、悲しみに、

駆け出す人…。

 

 

恋人よ ボクは旅立つ 東へと向かう列車で

華やいだ街で君への贈り物 

探す 探すつもりだ 

〈太田裕美 / 木綿のハンカチーフ〉

 

 

憧れ、希望、夢の実現。

向かう人の想いは、残される人の心を覗き見るゆとりなんてない。

残される者が精一杯作ったガラスの笑顔を

単なるお祝いの、祝福の笑顔として受け流す。

やがて汽車は動き出し、

見送ってくれる人の姿が視界から失われると同時に、

残る人々の笑顔は行く人の気持ちから消失する…。

 

 

花嫁は夜汽車に乗って 嫁いでゆくの

あの人の写真を胸に 海辺の町へ

命かけて燃えた 恋が結ばれる

〈はしだのりひことクライマックス / 花嫁〉

 

 

この歌のイメージに、見送る人達の姿はない。

彼女は何もかも捨てなければ許されない窮地に追い込まれ、

そしてそれらを断ち切った。

どんな人も一生の中で必ず運命を左右する選択を迫られる時がある

と聞くが、無い人も、当然存在する。

 

 

駅のホームのはずれから そっと別れを言って

それで愛がはかなく 消えてしまった

〈伊藤咲子 / 乙女のワルツ〉

 

 

見送る人に気づかない人。

見送られる彼は愛する人と旅立つ。

残された者は引き際を心得ている。

いや、心得なければならない立場。

まっすぐな恋がしたいなら、引き際は掟。おきて。

 

 

あの人から言われたのよ 午前五時に駅で待てと

知らない街へ ふたりで行って

一からやり直すため

〈麻生よう子 / 逃避行〉

 

 

示し合わせて逃げる。

旅立ちではない。逃走だ。ランナウェイだ。

関わった人々を裏切るのかもしれない。

そして最後にはかけがえのないはずの人にまで裏切られてしまう。

喜びと悲しみは紙一重、

でもそれは、すぐに表も裏も同じ模様に変わってしまう。

表も裏も、涙で濡れている。

 

 

今夜の夜汽車で 旅立つオレだよ

あてなどないけど どうにかなるさ

〈かまやつひろし / どうにかなるさ〉

 

連れのいない旅立ち。あてのない出発。

それは、果たして旅立ちって言えるのか。

単なる移動。それなら気楽。そして空しい。

そしてサッパリ気分。

サッパリ気分て空しい?。悲しい?。さわやか?。本人次第?。

 

 

改札口できみのこと いつも待ったものでした

電車の中から降りてくる きみを探すのが好きでした

〈野口五郎 / 私鉄沿線〉

 

 

旅立ちの出発や到着ではない、日常の句読点。

毎日必ず出かけて、

そして必ず自分の元へ戻って…く………。

 

…………………

 

何がいけなかったの?

 

 

だれもが知っている。

喜びの、悲しみの、駅。

誰もが口ずさむ。

数え切れぬ程ある駅にまつわる楽曲。

誰もが書かずにはいられなかった。特に、

特に、

 

 

悲しかったって…。

 

 

 

 

 

 

 

エンピツが一本 / 坂本九 / 新聞配達少年の頃

Title : 中学生はみんなドラネコ

 

 

ボクの机の横の彼は、いつも鉛筆が1本だけだった。筆箱もなく、授業が始まると、芯先が折れないようにハンカチでくるみ輪ゴムで留めたそれを、ボロボロな手提げ紙袋から大切そうに取り出し使っていた。

その鉛筆はいつも、常に見事な出来栄えで削り上げられていて、鋭い芯先で刺されたら間違いなく出血するであろうと思われた。

「すごいね。カッターで削ったの?」

「お母ちゃんが削ってくれる」

彼はとても無口だった。幸いボクの教室には弱い者イジメをする者などいなかったので、友達のいない彼が標的にされることもなかった。

彼は昼食時になると決まって姿を消した。体育館裏の工具室の裏で弁当をかきこんでいる姿を1度見たことがあった。尾行して知ったのだ。

彼とボクは友達になってはいけなかった。

そんなはずもないのだろう。だが、授業中常にボクの右横にある彼の左肩は、ボクにそう切々と訴えている気がしてならなかった。思い込みだろうと思う。しかし翌朝目覚めた瞬間、不思議なことにそれは思い込みではないと確信するのである。

彼は午後の授業になると度々激しく体調を崩した。吐き気を必死でこらえ、我慢出来なければトイレから持ってきたトイレットペーパーを丸めたクシャクシャ玉に吐いた。先生に言って保健室に行こうよ、とボクは何度も彼のこめかみにささやくが、そのつど彼は必至で首を横に振った。

ボクはいつもおろおろする。

彼にとってボクは裏切らないクラスメイトだった。先生は彼の額の脂汗を知ることなく彼は卒業出来たからだ。

小学校を卒業しもう彼と会うことはなかった。彼と机を並べた1年をボクは忘れた。ボクは剣道部に入部し日々頭に竹刀を食らった。

 

中学3年の夏休み、ボクは早朝マラソンを始めるようになった。何日か経ったある朝、ボクは新聞配達をする彼と曲り角で出くわす。

彼の顔から嬉しさがこみ上げ、満面の笑顔と共に彼はボクを牛乳屋に誘った。それは言ったこともない近所の入り組んだ路地裏にあって、牛乳瓶を店先で飲ませるという。

「いくら?」「いいいい、ボクが誘ったからボクが出す」

冷たい牛乳を彼は美味しそうに一口飲み、

「いつも配達のあとに1本飲むんだ」

「新聞配達なんて偉いね。中学3年で雇ってもらえるんだ」

「うん…。知り合いのおじさんだから…」

彼は一瞬ためらう素振りを見せ、唐突に言う。

母と二人きりの生活、彼の母親は腐りかけた食物を何処かの店で貰い、それを煮てひとり息子の弁当箱に詰めていた。だから彼はしょっちゅう具合が悪くなったのだ。今は自分が働いてるからもう大丈夫、と彼は遠い目をする。

ショックで何も答えられないでいるボクに、彼は続けた。

「あの鉛筆が折れた時、くれたよね?、覚えてる?」

「え。……ああ……」

「あれ、使わないでしまってあるよ。机の中に」

ボクは彼と別れた。二度と出会うことはなかった。あまりの気恥ずかしさに偶然会うことすら怖れたのかもしれない。子供には、そんな訳の分からぬところがある。

そんな思い出があるせいか、この聴いたことのない楽曲がTVから流れてきた時、夕食を頬ばっていたボクは口にゴハンを満杯に詰め込んだまま、不覚にも突っ伏して号泣した。その姿を家族が驚愕の眼差しと笑い声で絶賛したことを今でも覚えている。

 

 

♪  鉛筆が1本〈浜口庫之助作詞作曲 / 坂本九 歌〉

 

鉛筆が1本 鉛筆が1本 ボクのポケットに

鉛筆が1本 鉛筆が1本 僕の心に

青い空を書くときも まっかな夕焼け 書くときも

黒い頭の とんがった鉛筆が 1本だけ

 

男性の前川清と女性の前川清 / 世界的に稀有な歌手

Title : ボーカル・マイクの妖精

 

 

私はかなりの音楽好きで、特に海外の色々なジャンルの歌や演奏を楽しんでいるのだが、それにしても妙に前川清という歌手が気になる。私は演歌ファンでは決してなく、いわゆるムード歌謡なるジャンルにも特に固執などしていない。

最近、桑田佳祐が前川清ファンであることを知り妙に納得した。彼もまた幾多の国内外名曲を聴き尽くす程のリスナーだから。

前川清の稀有な魅力をひとつ挙げてみたい。

野村正樹が歌って有名となった楽曲 ♪一度だけなら。今ならYouTubeで内山田洋とクールファイブのものがアップされている。

聞いて驚愕する。前川清の歌声は明らかに女性そのものである。女声の真似が上手いと言っているのではなく、この楽曲の主人公に生き写しだとと言いたいのだ。

クールファイブの楽曲 ♪ 北ホテルと聴き比べてみると更に仰天する。許されない関係を女性が断ち切りたくとも断ち切れない、それほどの男の魅力。抗えない程の理性を超えた魅力。そんな男ってどんな感じなのだろうか。

前川清はその男性の印象を歌声で伝えて見せた。

男性が男性の心情や女性の心情を歌う。それは世界中、星の数ほど試みられているが、これほどまでに男性歌手が女性に成りきれた例を私は知らない。どんな名歌手も異性の歌声の使い分けはしないものだ。

前川清は歌を歌うことが好きではないと言う。なるほど納得。であれば歌う自身に酔いしれることはないだろう。つまりは、

空恐ろしい程の客観性を楽曲との間に持ちえることが出来るわけだ。

千の風になりたい理由

Title : 千の再会

 

 

 

圧倒的な全国支持を受けた楽曲  ♪ 千の風になって を聴いていると感慨深いものがある。人は一戸建て住宅、持ち家を望む。一国一城のアルジ。近年はマンション志向の人も富に増えはしているものの、独立した持ち家を望む人は多い。

自分だけの、自分の家族だけの自由な領域。自由な世界。

 

お寺のお墓は一戸建て住宅、都会のBOX型お墓はマンション形式。

♪ 千の風になって、では、私はお墓に居ないのだと告げる。

持ち家がお墓と言う名前に変わった、というだけではなかった。

そうではなかった。

人の役にたちたい。誰かの傍に居たい。肉体が滅び、魂だけになってなお、人の想いは変わらない。永遠に。その地に縛られる持ち家と大きな空を吹き渡る魂。そのコントラストを繋ぐものは人と人との触れあい。畑に降り注ぐ煌めき (きらめき) の風は親と子の懐かしき再現のようでもある。

 

 

生きているのに、肉体を持ち合わせているのに、度々その事を忘れてしまいそうになるボクは、度々に愚かだ。

新しい誰かの為に私など思い出さないで

Title : 天井裏のフシ穴から真下を覗くとハッタリハンゾウは物思いにふけっているところであった

 

 

 

梅雨でもなヒのに、今日はまるで6月梅雨時を思わせる感じがしてしまフ…。

こんな時、人は湿度の重みが身体にのしかかるのを感じずにはいられない。

でもちょっと待って…。 ムファッ…

こ、これってマサカ、心の湿度、すなハち溜息のミナモトであるところの過去のワダカマリの重圧こむら返りッ ?!。

それとも、さッ最近は持病じゃないかと疑い始めた腰痛や肩凝りがもたらす将来へのバクゼンとした溜息感のシボミ風船ッ?。

ハゥクッ!。

 

新しい誰かのために わたしなど思い出さないで

声にさえならなかった あの日のことを

季節は運んでく 時の彼方

六月は蒼く煙って 何もかもにじませている

雨のステイション

会える気がして

いくつ 人影 見送っただろう

 

〈松任谷由実 / 雨のステイション〉

 

 

新しい誰かのために…。わたしなど思い出さないで…。

 

そホ。新しい誰か…。もう私は新しくはない?。そホね。

あなたにとっては。

他の新しい人達にとっては、わたし新しい誰かなのよネ。

わたしなど思い出さないで?。…そフね…。

それは思い出してくれないかなって願望の裏返し。

だいじょホぶ。きっと思い出したりしない。何かのハズミ以外では。

 

新しい誰かのために わたしなど思い出さないで

 

そホ。新しいわたしに近づいて来る、新しい誰か。それホ待とうよホ。

それが梅雨開けってことでしょフ。雨がリフレインするから梅雨だもんねヘ。

そホ…。今日はまだ梅雨でないの。ボクったら間違えちゃったんだね。

ハァフッ。