小学5年の夏休み。例年通り、母は熊本の実家へボクと弟を連れ疾風のごとく舞い戻った。ボクにとってオバアチャンちへ遊びに行くというのは “ 楽しみ番外編 “ といったところ。地元とは違う友達が何人もいる。言葉使いも話題も、当然遊び場も、何もかも違う新鮮さ!。生まれ変わったような、何かこう…、地上に這い出たセミの幼虫が初めて目にする陽光や地上の空気に触れてワナワナ身震いするような、そんな戸惑いと胸騒ぎ…。
ある日の夕暮れ刻。神社の境内を駆け回り半狂乱の川遊びから帰宅したボクに、夕飯の食卓を整えていたオバサンが「おいしい物あげようか」と笑って台所に姿を消し、小皿に梅干しを1粒乗せて舞い戻ってきた。梅干しなど食べたくもない。などという顔はみじんも見せず、ボクは作り笑いしながら一気にそれを口に放り込み、口中で種と果肉を引き離す作業に移った。イヤなことはただちに済ます、がボクのモットーではないか!。だがこれは………?。
何というおいしさであろうか!!。こんなおいしい梅干しは、生まれてこのかた1度たりとも食べたことがない!!。いつものボクなら大騒ぎしてお代わりを激しくねだっていたことだろう。
しかしそれは出来ない。オバサンは非常にクールな雰囲気を持っていて、ボクのようなフザケきったガキンチョには非常にとっつきにくいのだ。よって、軽口をきくなどもってのほか。おそれ多い。
せめてボクは、満面の満足笑みを作ることによってオバサンがお代わりを持ってきてくれる可能性に賭けたのだが、オバサンは「1個だけよ」と笑い、梅干しをもらったことを母にも弟にも内緒にしなさいと言う。ボクはたちまち理解した。非常に貴重な、価値のある梅だったのだ!。だとすれば、たった1粒かあ、チェツ!、などという低次元の話ではない!。ボクは選ばれた人間なのだ!。小学生ほど自分の優劣性に敏感な者はない。ボクは紛れもなく勝者だ!。
夏休み明けの初日。下校途中、ボクはいつものパン屋でアンドーナツを買い、傍らの電信柱に身を隠してソレを頬張っている時、視界に入った漬物屋の看板文字に目が釘付けになった!。
梅干し各種あります
ボクは軽いめまいを覚えながら、酔いどれイカのもつれ足でハアハアアと帰宅。TVの前に寝そべり、主婦の束の間、黄金のうたた寝むさぼる母に膝がしらで詰め寄り、ねえ、ねえ、ねえーッと弾む息で母のヒジ枕を激しく揺さぶりながら、
「買い物行こうよ買い物ーッ!」「何なんですかアナタはァ、もうッ!」
母の後頭部ヘアが、寝ぐせで一部ドリルのように鋭く突起しているのも指摘せずボクは母をせっつかせ漬物屋へといざなう。「何?漬物?梅干し?」。降って湧いた子供のオネダリに解せぬ様子の母とボクは薄暗い店内へ。
異様に背の高い、年期の入った電信柱のようなヒトが「あっはは。どうもね」と奥から出てくる。「何差し上げましょ」「何かコレが梅干しって」と母。
今までかつて食べたこともない程の至福をもたらす謎の梅干し。それは熊本独自のものかもしれないが、もしやして此処にあるのではなかろうかと…。生きており、且つ言葉を話す電信柱にひるみながら、果敢にも説明続ける小学生。
「そーゆーことならね~」と電信柱は妙に機嫌良さそうに二段重ねのズラリと並んだ各種梅干しに満たされたガラス鉢の背後へ。笠電球の光が届かぬ暗がりで見る彼は、電信柱ではなく巨大な黒ゴボウの様にも見える。端っこの鉢フタを開け
「片っ端から味見してみるしかァ~ないんだよぉ~、と、ホレ!」
ボクは手渡された楊枝刺し梅干しをパクリ。すすすすすすすすすぅぅぅッぱい!!
「で、どう?」と真顔の電信柱。ボクは小首傾げ、「違うぅ」。
何故、漬物のプロも、母も気づかなかったのだろう。ボクが魅せられのは梅干しなどではなく、梅酒に漬かった梅だったのだということに。ボクは、赤くなくて緑色っぽかったと告げたはずだ。オバサンだってそうだ。あの時、ひとこと梅酒の梅だよと教えてくれてさえいれば、こんな…。
子供心にも、ボクにはタダで試食させてくれる電信柱のやさしさを踏みにじることなど出来やしない、との思いから、出された梅は種を除いて全て丸飲みした。ひとくちかじってポイなんて出来るわけがないのだ。ボクは少なくとも16個の梅干しを、ゴハンや飲料水の援護もなく、孤立無援の状態で続けざまに食べた。
その間ずっと、電信柱も母も、ある種の疑いを抱いているようだった。ホントに梅干しの味の微妙な違いが分かるのか?、これは利き酒ならぬ利き梅ではないか、と…。それはボクにもヒシヒシと伝わってくる。どれも違っていたら一体どうなるのか。電信柱はからかわれたと思いやしないだろうか。母はどうするのだろうか。なかったわね、さよなら。ってわけにはいかないのではないか。そう思うと全身に冷水を浴びせかけられたような面持ちとなる。自分は梅干しを主食とするウワバミ(ヘビ)なのか。次々と梅干を丸飲みしてゆくのだから。
利き梅も終盤にさしかかる頃には、もはやボクの両目は酸っぱさのあまり真一文字に閉ざされ、決して自分の意志をもってしても開けることが出来ない状態となっていた。首筋、両手のヒラはビッショリ汗をかき、喉が水を欲して、のたうち回っているではないか!
「うぇぇぇ~い……。全部違ったかァ~!」と電信柱は温かく微笑んだ。このオジサンはやさしい。いい人だ。ゴボウの妖精だ。しかし、彼は梅酒の存在を知らなかったのだろうか。漬物屋ゆえの盲点だったのか。
母は彼に詫び、梅干しを一袋買い求めた。高菜漬も。店を出て歩きだすと、母は
「アンタの顔、しわくちゃジイサン。あはははははーッ!」
●写真タイトル / 綿菓子雲
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