日本人と風 / 千の風 / 風に吹かれて

Title : 風

 

 

 

日本人は風に心を託す。風に歌を託す。そうせずにはいられない。

端田宣彦とシューベルツの大ヒット曲 “  ” 。

作詞家の北山修はそのカレッジフォーク名曲の中、

 

ちょっぴり寂しくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ

としたため、人は誰も耐え切れず振り返る、とつづれ織る。

 

見えない何かを日本人の心象風景に映し出して見せるもの、それが風。

心に反映される何かとは幻だろうか。錯覚だろうか。それとも記憶の断片?。

時の経過の中で埋没してしまった大切な誰かの面影?、

忘れかけた本来の自分の在るべき姿?。

いずれにしても、それは束の間の幻影。

一瞬にして心の中を吹き抜けて行ってしまうもの。

 

静岡の網代に行ってみるとよく分かる。

ひっきりなしに風が四方八方から吹きすさび、

髪は連獅子、お肌は風疲れ。

おのれの心を見つめるどころか、心まで海に持っていかれてしまう

吹き飛ばされてしまう。油断も隙もありゃしない。

やはり網代は干し魚が絶品。

ボクは熱海駅前の乾物屋でコアジの干物を買い求め、

帰宅後食してあまりの旨さに悶絶しそうになった程だ。

やはり心と風の囁き合いは一瞬のリンクに限る。

 

 

北山修は “ ” (作曲 / 端田宣彦)の詩の中で

 

振り返らずただひとり一歩ずつ 振り返らず泣かないで歩くんだ

 

と結んでいる。

名作映画 “ 風と共に去りぬ ” の劇中ラスト、

ヒロインは自分に言い聞かせるようにこう呟いた。

 

「明日は明日の風が吹く」

 

“ 風に吹かれていこう ” (作詞作曲 / 山県すみこ)の歌詞では

 

風に吹かれて行こう 生きることが今

つらく いやになったら 風に吹かれてゆこう

 

とささやきかける。傷心に寄り添う風。そんなことも風には出来てしまう。

 

“ サトウキビ畑 ” (作詞作曲 / 寺島尚彦)で繰り返される一節において、

風はざわわ ざわわ ざわわと表現され、やはり前出の “ 風 ” と同じく

 

広いさとうきび畑は 風が通り過ぎるだけ

 

と語られる。何もない風、姿なき風。実態のない風。何もない所を吹き抜けるだけの何もない風。

日本人は、確かにそこには何もないと同調しながら、

それ以上にそこには何かが有ると実感する。

それは哲学的な禅思想を指しているかもしれないし、

小説で言えば行間を読むということなのかもしれない。

かけあい漫才で言えば、間(ま)なのかもしれないし、

阿吽(あうん)の呼吸を指しているかもしれない。

女性特有の勘であるかもしれないし、

PC画面上の電子マネーを指しているだけなのかもしれない。

 

 

南沙織の“ 哀愁のページ ” (作詞 / 有馬美恵子、作曲 / 筒美京平)では

 

秋の風が吹いて舟をたたむ頃 あんな幸せもに 別れが来るのね

 

と自身に言い聞かせる。

松田聖子の “ 風立ちぬ ”(作詞 / 松本隆、作曲 / 大瀧詠一) も共鳴するかのように、

 

風立ちぬ今は秋 今日から私は心の旅人

 

とズバリこの本題を言い当てる。

 

野口五郎の “ 季節風 ” (作詞 / 有馬美恵子、作曲 / 筒美京平)には、

心の整理がつかない主人公苦悩の様子が

 

過ぎゆく風 泣いてる日がある

 

と語り口調で切々と自問自答される。

風は思い出エピソードそのもの。だから風が行ってしまえば物語は終わる。

それは過去になるし、記憶になるし傷にも勲章にも成り得る。

記憶の内容次第で、風はそよ風にもなるし熱風にも寒風にもなる。

豪雨を巻き込む台風にもなれば、つむじ風にも変容する。

 

世俗的な吹き抜けてゆく風を

“ 風俗 ”

と呼び、時代の風、通り過ぎてゆく永続性のないものと位置付ける。

流れ行くと書き

“ 流行 ”

と読む。それは風を指している。

だがひとたび吹き去った風は、再び向かい風として

突如ボクらの前に立ちふさがり、再開の困惑をもたらしてみたりもする。

 

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